頽廃を象徴する日本語?2017年04月06日 16:27


 東京の都心へ出ることがめっきり少なくなった。何か事あるたびに神田・本郷・根津・亀戸など周辺は訪ねるが、東京駅近辺や銀座・有楽町に出ることはほとんどない。副都心線の乗り換えばかりが頭にあるせいだろうか。先日行った日比谷も数年前に「日韓交流お祭り」を観て以来だ。東宝の巨大な映画館旧有楽座の跡地にできた日比谷シャンテで韓国映画「お嬢さん」(アガシ)を観た。

 R-18のせいかどうかは分からないが、題名とは裏腹に観客の“アジョシ(おじさん)”率は高かった。韓国映画にしては珍しいことだろう。もちろん魅力的な女優二人が出演していることに加え、主な出演者が皆日本語を話すということに関心が向いたのかもしれない。私もその一人ではある。

 今までに、それほど多くの韓国映画やドラマを観ているわけではないので実態は不明だが、そこで使われる日本語には、時々耐えがたいほど酷いものがあったことを覚えている。日本語を母語としない俳優が演じる限り、そこに無理が生じることは避けられない。「哭声」(コクソン)における國村隼のように今や日本人俳優が出ることもあるのだから、そうしたキャスティングをすることも一つの手段ではあるだろう。しかし、そうはしなかった。最初から考えもしなかったのか、あるいは意識的に排除したのか。

 パク・チャヌク監督の作品は、いわゆる復讐三部作に含まれる2本しか観ていないので、例によって大いなる勘違いの可能性はあるが、この映画を含め韓国映画における日本語の取り扱いには両国の歴史に関わるある種の“わだかまり”があっておかしくはない。ましてや、映画の背景が植民地とされた時代であればなおさらのことだ。とすれば、これまでの映画やドラマ以上に少し穿った見方もできるような気がする。

 一つには、この映画に「頽廃」という“気”が通奏低音のように流れていると感じられるからだ。“春画”や“艶本”の蒐集とその読み聞かせに象徴される植民地貴族がいて、一方にその家族を騙して財産を掠め取ろうとする詐欺師がいる。女達はそれぞれに“利用される側”あるいは“犯される側”を象徴しながらも、(その時代においては)隠された愛欲と男達への復讐に燃えている。

 どこに本物があるのか。他人(ひと)の国の言葉を使わざるを得なかった時代を、“偽物”の語り口で表象しているのか。あるいは、それを使った植民地の人々の蝕まれていった精神を表したかったのか。拙い日本語の台詞は、映画全体に濃密に感じられる「頽廃」を誘うある種の“香り”を生み出しているように思う。それは私が日本人だからだろうか。