象徴を体現する人の深い思い2016年10月26日 00:25


 明仁天皇が生前退位に関して国民に向けたメッセージを出してから2ヶ月以上が過ぎた。“国体”を体現するものとしての天皇を政治的に利用したい現政権とそれを支える者たちは、“個”すなわち人間としてありたい天皇の言葉をいかにして有名無実なことに貶めるかに腐心して、特別立法による一代限りの譲位案を匿名非公開の“有識者会議”から出させるべく準備を進めている。

 明仁天皇のメッセージが、海外のメディアの多くによって、現政権に無謀な改憲を思いとどまらせるシグナルの一つであると受けとめられ報じられたように、“象徴”という言葉が持つ“重み”を支えてきた人の今後がどのようなことになるのか、十分にその言葉を受け止めきれない一人の国民として憂うところは大きい。

 “象徴という務め”を彼、明仁天皇はこう述べている。「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」。日本全国はおろか海外まで、自然災害の被災者や戦没者の遺族と“霊”にいたるまで、傍らに寄り添うことを「象徴的行為」として高齢になる今もなお実践している姿に頭が下がる。

 ところで、戦後71年となった今年も「昭和一ケタ」と呼ばれた世代からは多くの故人が出た。なかでも1933年に生まれ、11,2歳という多感な時期に敗戦を迎え、その後に生まれた新しいメディアで“戦後”を象徴するかのように活躍した人がいる。永六輔と大橋巨泉。二人とも戦争への反対を貫いた。彼らは、8月15日を境に全てが変わったかのように“受け止めされられた”世代の代表として、「平和」という言葉をどこか疑心を持ちながら語っていたような気がする。

 戦後10年生まれの私はこの世代から様々な影響を受けたが、1933年生まれの人たちには取り分け大きなものを学んだ。藤本義一、天野祐吉、伊丹十三、黒柳徹子、菅原文太、藤子・F・不二雄。彼らには身に染みるような多くの共通体験があり、信じていたものが目の前で瓦解していく思いを心の奥に秘めて戦後世界を歩んだはずだ。

 その記憶が少しずつ薄れると同時に、この国の隠れていた本性が現れるごとく、あの時代を肯定する言葉が巷に溢れるようになった。それを、おそらく一番悲しく受け止めているのが明仁天皇なのではないか。彼もまた、1933年の生まれだ。

 ただ、彼は同年に生まれた人々とは全く異なる環境にも置かれていた。それは“個”ではなく“公”を背負わざるを得ないというものだ。その決意を少年だった明仁天皇は1945年8月15日にはっきりと認識していた。しかし、その思いの先に“象徴”として生きることを引き受ける大きな出来事があったのだと私は考えている。

 それは、先のメッセージを宮内庁のホームページで読んで以来、ずっと引っかかってきたことと関係がある。それは父である昭和天皇がそこに全く見当たらないということだ。即位に関わる様々な問題点に触れたところでも具体的にその人のことが出なかった。その父は戦後、“神”から変わって人になった。このことが明仁天皇をして、“象徴”を生涯追い求めていくものとして自分に課す大きなきっかけになったのではないかと思う。いずれにしても心からの敬意を表する。

追悼しない組合とは?2016年10月28日 21:25

 大手広告会社の電通で過労死が“繰り返された”ことを聞いた時、労働組合は一体何をしていたのだろうかという素朴な疑問が湧いた。もちろん電通にも労働組合はある。連合の単産である広告労協に企業内組合として加盟している。また、広告労協はメディア関連企業の組合が集まった「日本マスコミ文化情報労組会議」(MIC)という組織の一員でもある。

 そこで何気なくそれぞれのWebページをのぞいてみた。広告労協の「News&Topics」では2014年春闘のベースアップに関する見解が、MICでは沖縄・高江における記者拘束に関する声明が、それぞれ最新のトピックだった。先述の過労死問題に関連して、労働条件のあり方について公開するような見解なり声明なりが、ここにあるべき必要はないのかもしれない。

 ただ私が思うのは、故人への一片の追悼メッセージもそこにはないということが、とても淋しいなということだ。関係者として一言あって欲しいというのは他人の身勝手かもしれないが…。

 自殺率そのものは高止まりの傾向を示しているものの、若年層の死因における自殺の比率は先進諸国で抜きんでていると聞く。

 いわゆる“いじめ”も含めてハラスメントの蔓延を防ぐには、亡くなった“個人”への追悼を公にするところから問題解決の道を探るしかないのではと考える。

 今年亡くなった永六輔が書いた「上を向いて歩こう」は、60年安保闘争の渦中で死亡した樺美智子さんに象徴されるような無念さを鎮魂歌にしたものだという。この歌を多くの若い故人に向けて歌わないですむような世の中を目指したものだったのだろう。

検閲を超え、海峡を越え2016年10月30日 21:49


 久しぶりに演劇を観に行った。それが何と韓国語の芝居だ。

 実は、今は無き新宿タイニイアリスが閉まる少し前に、そこで上演された芝居を無料で観させてもらったことがある。コルモッキルという韓国ソウルの大学路(テハンノ)で活動する小さな劇団だった。今日観た「哀れ、兵士」はそのコルモッキルの作家・演出家パク・グニョン氏の作品だが、ソウルでは文化検閲という事態に巻き込まる中で南山芸術センターが上演し、続く今回の日本公演への支援もあり、「Festival/Tokyo16」という芸術祭プログラムの1作品として招聘されることになった。プログラム全体のコンセプトは「境界を越えて、新しい人へ」だという。

 劇場は東池袋にある「あうるすぽっと」、豊島区立の舞台芸術交流センターだ。杉並の「座・高円寺」に行った時も思ったが、こうした劇場施設の存在に東京23区の底力を感じる。

 さて、芝居の内容だが、四つの異なる時空間に置かれた様々な兵士の葛藤と悲しみがタペストリーのように織り込まれた作品で、演出ノートによれば、「私が大韓民国という国で暮らすなかで自然に体と心で感じてきた、この分断の時代、心痛むさまざまな問題について、同時代を生きる演劇人、そして若い観客の皆さんと、これらの問題を共有してみたいという気持ちで作り上げた作品です。これは私の胸に宿題のように残されている、韓国現代史の中の軍人たちにまつわる哀れな死への一種の哀悼」だそうだ。

 太平洋戦争末期の日本で特攻に志願した朝鮮人たちが「靖国神社に祀って欲しい」と言い残す場面があるが、この一連の背景に流れていた「同期の桜」の歌詞だけは“日本語”であった。そのことが、パク・グニョン氏から日本の観客に投げ掛けられた一つの“問い”のように、私には感じられた。

 本日が楽日だったが「境界を越えて、新しい人へ」伝わったものがあっただろうか。それにしても、今まさに隣国が伝えるニュースは、そのことを後押ししているようにさえ見える。