年に一度の貴重な時間2016年10月01日 22:32


 先日放送された「ザ・ベストテレビ2016」の録画を全部見終わった。昨年度に国内の放送局が制作したドキュメンタリー番組のうち、各種の顕彰機関・制度でグランプリや大賞・最優秀賞などを受賞した番組をそのまま紹介するものだ。今年は二日間で計7本。昨年同様、ギャラクシー賞から地方の時代映像祭まで対象となる8つの受賞作品のうち重複した1本を除いたドキュメンタリー作品が放送された。

 テーマは、引き揚げの記憶からワイマール憲法の教訓、作家の素顔、障がい夫婦の22年、震災によって復活した芸能、薬害と歳月、老後のしあわせまで多彩だ。重複した推薦や応募などがある中で、先行した受賞作品を最高賞から避けるきらいはあるかもしれないが、全体としてはバランスが取れている。

 ここ4年ぐらいは欠かさず見ているが、傾向としてはキー局は少なく地方の放送局の番組が多いということだ。NHKの場合は外部プロダクションによる制作も多い。対象となる者に密着し「人間ドラマ」のようになっているものもあれば、関係者や地域に絞って長期間の取材を続けているものもある。ただ、調査報道ではあるが、概して問題告発にまで至るようなものは少なく提起や提言のようなものにとどまっている。責任の不在という社会風土の中で“不偏不党”を金科玉条とするこの国では、ボストン・グローブの「SPOTLIGHT」のような報道はなかなか望めないのだろう。ゲストでさえもメディアより番組を観た視聴者の行動に期待しているかのようにみえる。

 私がこの1年で見たテレビドキュメンタリーの中で出色だったものはNNNドキュメンタリー’15「南京事件 兵士達の遺言」だ。ギャラクシー賞・民放連盟賞(報道)のいずれもで優秀賞を受賞しているが残念ながら最高賞には選ばれなかった。“戦後”70年だった昨年においても日本人の加害責任に目を向けるような番組がほぼ無かった中で、この番組は貴重だった。

 毎年「ザ・ベストテレビ」が放送される9月後半は、記憶されるべきメモリアルデーの候補に満ちている。満州事変の9月18日、安保法制が“成立”した9月19日、三国同盟を締結した9月27日、そして漢城を京城と改称した9月30日。放送された番組の一つ、報道ステーション「ワイマール憲法の教訓」はその48条「国家緊急権」の発動がどのような事態を招いたかを追ったニュース特集だが、その後の全権委任法を経てドイツが辿った歴史を見れば、憲法の中に“緊急事態条項”を入れることがどれだけ危険なことかは自明のはずだ。だから、ドイツはヒトラーが組閣した1月30日を忘れない。

癒やし続ける人々2016年10月05日 21:31


 雨模様の一日、東京へ出かけました。ある写真展を観に行くためです。というより、その写真展に関係する人の話を聞きたかったというのが本当のところです。

 国境なき医師団(MSF)の“紛争地のいま”展が、東京タワーの地下にあるホールで開かれました。ちょうど1年前の10月3日、アフガニスタン・クンドゥーズに設置されたMSFの外傷センターが米軍の爆撃を受け、女性や子どもを含む42人が殺されました。主要病棟が正確に狙い撃ちされたものです。2011年の開設以来、月に平均して580件の手術、2260件の救急診察を行っていた同センターは今も閉鎖されたままです。

 こうした紛争地の医療施設への空爆が年を追う毎に増えていると聞きます。そのためMSFでは「病院を撃つな!」というキャンペーンを行い、その一環として写真展を各地で開くことを準備しています。東京タワーホールでの開催はその資金協力(クラウドファンディング)のためのPRでもありました。

 会場で現地派遣スタッフの一人である白川優子さんという看護師の話を聴きました。30代から参加したMSFで、6年ほどの間にイエメンを中心にシリア・パレスチナなどで主に手術室看護師として活躍されている方です。数々の経験の中でも、隣国での医療措置を受けるためにシリア国境を出ようとして、出られないままに亡くなった少女のことが忘れられないと言います。国境が奪った命と言えるのかもしれません。

 講演直後、まだ聴衆が席を離れる前に、どうしても聴きたいことがあって質問しました。診療所をどこにどのように造るのか、そしてそのことをどのように報せるのかと…。紛争地で活動するために、それぞれの紛争当事者と接触し、生活の場ともなる場所の選定から活動の保証まで、医療行為を始める前に数多くの課題があるということ。一旦開くことさえできれば多くの人々は口コミを頼りに遠くからも集まってくるそうです。そして、現地の人々によるボランティアが生まれます。そうした多くの人による積み重ねが、たった1回の空爆により雲散霧消します。

 白川さんがWebに載せた文章には次のような題が付いています。「病院を撃つな、そして誰も撃つな」。外傷以外の医療から教育施設まで含め、「一般市民の要となる場の全てが戦争に巻き込まれるべきでは」ないという「経験からこみあげる思い」が名付けたものでしょう。

 会場では紛争地に生きる市民の写真カードがたくさん飾ってあり、その裏に来場者が感想なりメッセージなどを書いてから、破壊された病院の巨大な写真を隠すように1枚1枚掛けていくという試みがありました。

芸を継ぐ場所2016年10月09日 00:38


 まだ余韻のようなものが残っている。久しぶりに聴いた“生”の浪曲の節(ふし)と三味線の音(ね)が、身体の中まで響いたからなのだろうか。雨は上がったのに、なぜかしっぽりと濡れたような気分で坂道を下る。

 大倉山記念館は不思議な場所で定員80名という中途半端な大きさのホールから、合唱にも使える集会室や結構広いギャラリーまである。高度経済成長期以降に高齢化が進む過程で、市民の余暇の過ごし方を支えるような文化センターが各地に造られたが、この建物はそれよりずっと前に人文学の研究施設として生まれた。それが自治体に移管され、分区して小さくなった港北で文化センター的な役割を担ってきた。一度行ってみればわかるが、駅前から登る急坂は徒歩7分という地図上の距離感覚を裏切り、休むことなく丘の上に立つ頃には息が上がっている。

 その坂を、小雨降るなか多くの高齢者が登る。最近は客層も少しずつ変わってきたとはいえ、浪曲の演目は今もほとんどが“義理・人情”の世界だ。時代に縛られた人々の物語、そこに使われている古い日本語。江戸から幕末の市井の人々を描く語り芸は、親の世代に馴染みはあったにせよ、私個人もラジオから流れるダミ声をかろうじて聞いたことがあるくらいだから、記念館のホールに集まる聴衆の年齢がずいぶんと高いのも無理ないことだろう。

 しかし、東日本大震災が東北に芸能を蘇らせたように、“時代閉塞の現状”が在野の芸能にいま光を与えているような気がする。それは、本日の曲師(三味線)がまだ若い女性だったからかもしれない。語る浪曲師は玉川奈々福さん。本来その上手(かみて)には名曲師の沢村豊子師匠が座っているはずなのだが、直前に手首を骨折してしまい急遽弟子の沢村美舟さんが代役を務めることになった。

 美舟さんは昨年6月に入門し今年4月に浅草木馬亭の定席でデビューしたが、奈々福さんとの共演はまだ七回だけ。しかも今日は二席の独演会。発表会を見守る家族のような気分になった観客がそこにいた。演目は「飯岡助五郎の義侠」、そして「浪花節更紗」。特に二席目のそれは、奈々福さん個人にも縁の深いある浪曲師の成長譚を独演会ならではの“通し”語りで披露するものだったから、美舟さんの緊張は素人目にも良くわかった。

 “芸”というものが、それを見聞きする人を介してこそ上手になるものだとすれば、彼女にとって今日の公演はこれから大きく成長するきっかけになったと思う。弦の堅い調子と上ずりぎみの掛け声を真っ直ぐに受け止める奈々福さんのいつも以上の気合いが会場を巨大な稽古場にしてしまったかのようで、終演後の舞台にはその厳しい遣り取りの名残があった。

“個人”をつぶす組織2016年10月12日 01:30


 新聞が休刊日だったうえに、昨日からネットニュースに接触する機会もなくて、今日の夕刊で初めて知った。アンジェイ・ワイダが亡くなったそうだ。

 少し前にここにも書いたが、世の中のことを映画から学んだような私にとって、忘れられない監督の一人だ。レジスタンスや東欧の共産主義と民主化について映像で語った数少ない人だろう。

 ワイダの作品では、カンヌのパルムドールを受賞した「鉄の男」が日本では有名なのだろうが、私が一番記憶に残っているのは「大理石の男」だ。岩波ホールのロードショーで観た時の強烈な印象を今でも何となく覚えている。それは、おそらく“労働英雄”なるものがある(あった?)ことを初めて知ったからだと思う。集団や組織というものに対して、言いようのない嫌悪感を抱き続けてきたものにとってプロパガンダに利用され捨てられる対象への憐れみが何より強かったのだろうか。

 実は、今年の6月25日に開かれた韓国勉強会の少し前、朝鮮戦争の背景を知るために「北朝鮮現代史」(岩波新書)を読んだのだが、今まで読んだ本の中でも最も疲れたうちの一冊だった。なぜならば、そのほとんどが「政局」だからだ。様々な権力闘争や体制維持のための粛清、そして宣伝文句。政権が出す公式の一次資料だけに依ったら、そうならざるを得ない世界がまだ存在するということだ。

 その後、「北朝鮮帰国事業」(中公新書)・「兄 かぞくのくに」・「ピョンヤンの夏休み」などを読み、蓮池薫さんの講演も聴いた。それぞれの事情に関わる問題点は一つ一つ違うが、それをゆっくり考えて行くと、いずれもどこかで“個人”というものへの尊厳が失われているように感じる。しかし、それを暴力的に解決することはできない。

 ワイダは2014年の「ワレサ 連帯の男」の日本公開の前にこう言ったという。「暴力的な方法ではなく、対話で交渉する姿勢で自由化を達成した英雄が若い世代の記憶から消えた」。彼が愛したこの国は、今、組織を優先し“個人”をないがしろにする気配に満ちている。私たち自身も、もう一度「民主化」をワイダの映画から学ぶ必要があるのかもしれない。

王の便りは吟遊詩人には届かなかったか?2016年10月15日 22:13

 ボブ・ディランをノーベル文学賞に選んだものの、スウェーデン・アカデミーはツアー中の本人と話ができないでいるらしい。

 サルトルのように受賞を拒否することがあるのかどうかはわからないが、ネットのニュースではSONYの株価が上がったのだとか、関連商品のセールが始まったとかなど、昨年のアレクシエービッチをはるかに上回る“経済効果”とやらへの期待が続いているようだ。

 ボブ・ディランが後に続く音楽関係者にどれだけ大きな影響を及ぼしたかは、たとえば私のようなリアルタイムで聴いたわけではない者にも、彼の楽曲をカバーした多くの人々によって、その時代の“風”がどのようなものであったのかを何となく感じさせるぐらいには届いたことを考えれば想像がつく。

 それを“今更”という気持ちは正直にいってある。どうせなら、まだ陽が当たらないところにいるような、静かに言葉を紡いでいる人を選んで欲しかったと思う。もしかしたらディランもそれを望んでいるのかもしれない。

 「時代は変わる」ためには、もっと新しい言葉が必要だと…。