名前が呼ばれる環境2017年11月04日 11:15

 スクリーンで映画を観ることは嫌いではない。周囲から漏れる声なども余程大きくなければあまり気にならない質だ。ただ、本編上映前に延々と流れる予告編や広告がいやで、シニアになってもシネコンはあまり行かない。今はどうなのか知らないが、昔の初回上映は予告編がなくてすぐに始まったので、仕事が休みの日(ほとんど平日)に朝から行くことも多かった。最近は時間が自由なものだから土日や祝日に映画館を訪ねることはほとんどないが、昨日は特別なプログラムだったので朝から関内へ出かけた。
 横浜シネマリンで開かれた企画「ハマを見つめたドキュメンタリー映画」の1本、『中華学校の子どもたち』を観た。監督は中国で映画を学んだ片岡希さん。2008年の公開で撮影はその前だから、対象になっているのは10数年前の子どもたちだ。朝鮮学校などと同様に各種学校の扱いを受ける中華学校が舞台である。戦前に孫文が提唱した華僑教育を行う場として出発し、戦後の国共分裂を受けて二分化した歴史がある。そうした過去も含めて簡単な説明を入れているところもあるが、主役はこの学校で学んだ子どもたちだ。ただ、その対象は在校生だけではない。前身の学校から数えれば1世紀に近い歴史を持つだけに、通った子どもたちの多くが今も近傍に暮らす卒業生である。中には母校の教師として学校に戻る子どもたちもいる。
 長ければ幼稚園から高校卒業まで母国語を介して一緒に過ごした共通体験が、たとえば中華街での獅子舞の継承を支え、そこから強いきずなが結ばれたりする。もちろん世代によっては違う部分もある。たとえばアイデンティティ。華僑ではあるが日本国籍を取得する人、中国籍のままで生きる人、人さまざまだ。そうした多様性こそが外国で暮らす華僑社会のたくましいエネルギーとなっているのかもしれない。
 一方で、子どもたちは中華料理店『○○』の息子や娘だったりすることで、中華街という地域社会に暮らす構成員のひとりひとりでもある。そのような子どもたちと大人をつなぐ関係の中に中華学校の教師がごく普通に介在している印象があった。そして、それを支えているものが“名前”であるように感じた。出演していた子どもの一人「シャオリン」が会場ゲストとして登場し、今も当たり前のように「シャオリン」と呼ばれる関係の中にいることこそ、この映画が表したかったものではないだろうか。