まつろわない語り2023年10月30日 22:02

祭文語りを聴くため、4年ぶりに国立(くにたち)のギャラリービブリオを訪ねました。近代に失われた豊穣な「語り芸」の記憶を今に伝える貴重な“声”の復活に取り組む「旅するカタリ」の公演です。20人弱しか入れない小さな民家の一室は、東北の瞽女(ごぜ)宿を思わせます。
 演目は『熊野之御本地』。熊野権現の本地(ほんじ)にあたる天竺(てんじく)のマガダ国「善財王」とその千人目の后「五衰殿」の物語。千人目にして王の子を受胎した后に向けられた嫉妬(しっと)は、后の首を刎(は)ねよという偽の宣旨に化け、五衰殿は山奥の岩窟で首を切られますが、その乳首からは母乳が絶えることなく溢れ出し、王子は聖人に見つけられるまで生き延びます。その後、王子と対面した善財王は自らの王国を去って熊野へ垂迹するという話につながります。
 “迦陵頻伽”(かりょうびんが)の声と一緒に、はるか遠く天竺からやってきた善財王一行の姿には、『かぐや姫の物語』で姫を迎えに来た月の使者のイメージが浮かびます。古代の“歌”の豊穣な世界をしばし妄想するのです。
 後半は「百年芸能祭」と称して全国に展開している鎮魂と予祝の祭りの一環でした。1923年の関東大震災から100年。当時、警察の一部も含め「朝鮮人が放火している」などの流言飛語が拡がり、それを盲信し暴徒化した自警団などにより多数の朝鮮人(中国人・日本人も含まれます)が殺害されました。一方で殺人犯のほとんどは“情状酌量”や皇太子結婚の恩赦などで罪に問われないまま釈放されます。殺された人々への慰霊はこの10年のうちに段々と無視されるようになり、政府内にはその記録が無いとする官房長官の発言も出るようになりました。そうした中で始まった100年目の慰霊から次の100年を予祝する祈りの取り組みが行われています。
 今回は、沖縄で歌われた『標準語行進曲(?)』から始まり、金時鐘の「打ってやる」、竹内浩三の「骨のうたう」、中川五郎の「腰まで泥まみれ」。そしてボブ・マーリーの名曲「No Woman, No Cry」に準じた芸能祭の主題歌「ノーヒューマン・ノークライ」。
 半世紀前なら、路上はもちろん、唄声喫茶や労働組合の集会などでさえ聞くことができたかもしれない“地べた”の歌たちも、今やこうして細かく点在する小さな集まりでしか触れることができないほどに関心が失われつつあるのが現状で、細々とであれ誰かが続けなければ朽ち果ててしまうという危機感が強くあります。J-POPに代表されるような“商品価値”を背負った歌たちに深く飼い馴らされてしまった私たちが、世に“抗う”声を取り戻すことははたしてできるのでしょうか。その試金石のようなライブでした。
 関連した記事を4年前の11月に書きました。11月5日付けが西荻忘日舎、同29日付け(右上の次>>ボタンで表示)が国立ビブリオです。以下のURLからたどれます。
 http://amiyaki.asablo.jp/blog/2019/11/