忘れられる語り部2023年05月19日 19:28

グローバルサウスの進展でもはや形骸化したとも言えるG7サミットが広島で開かれることで何かしらの意味を持つかのように伝えられていますが、少なくとも国際的な議論に参加できるような外交手腕を失って久しいこの国にかろうじて世界の関心が集まるものがあるとしたら、それはやはり“世界で最初の被爆地”というメッセージしかないのでしょう。
 大陸に膨大な数の兵士を送り出した港がある軍都として知られた街は、大きな空襲の候補から外れ、たった一発の爆弾による被害効果を測るために選ばれました。その街で、被爆した同級生のほとんどを失った当時14歳の少年は、長ずるに地元の公務員として行政広報に携わり、最後は平和記念資料館の館長として知られるようになりました。
 高橋昭博さん。原水爆禁止や被爆者運動に関わる傍ら、修学旅行で広島を訪ね、あるいは事前に平和学習を行う学校へ出向いては、生徒たちに自らの体験を語る個人的な活動を始めた最も初期の「語り部」の一人です。その経緯は、1978年に刊行された著書『ヒロシマ、ひとりからの出発』(ちくまブックス)に詳しく載っていますが、私が最初に知ったのは同年の8月15日に放映された『ヒロシマ語り部の夏』というドキュメンタリーです。
 残念ながら、もうアーカイブスで観ることはできないようですが、著書同様に番組の中でも語っている言葉があります。それは、被爆時と同年齢の若者たちとの交流が自身の活動の出発点となったことに因縁を感じ、だからこそ彼らには「“戦争を体験しない”まま、若者としての平和で幸せな生活を送り続けてほしいと心から願わずにはおれない」と結んでいます。
 番組を観た私はその年の暮れに広島を初めて訪ねました。小雪が降る中、市役所から出てきた高橋さんの面影は今でも良く覚えています。短い時間でしたが歓談し、翌日から向かったのは呉・江田島と岩国です。戦後33年を経て、すっかり変わった街の周りにある“変わらない風景と新たな戦前”を一体の現実として捉えたかったのでしょう。その認識は、バイデンが専用機で岩国基地へ降り立つ今、変わらないどころか深化しているとさえ思います。