他者が見えない“私”2020年04月08日 10:40

昨日の“会見劇”で、イタリアの記者の「失敗だったらどう責任を取るのか」という質問に、わが国の首相はこう答えた。「最悪の事態になった場合、私は責任を取ればいいというものではありません」。森友事件で官僚に死者を出しても総理大臣はおろか国会議員も辞めなかった人に今さら何も期待できないことが改めて明白になったわけだが、この言葉の中にある“私は”というところに注目した論評は見られない。他者の存在に思いが寄せられない人が為政者になっていることを如実に語っているのに…。
 一方、給付が限定的になった理由をこう述べた。「自民党でも一律給付の議論がありました。私たちも検討した。たとえば、たとえばですね、“私たち”国会議員や国家公務員は、いま、この状況でも全然影響を受けていない。収入に影響を受けていないわけであります。そこに果たして、5万円とか10万円の給付をすることはどうなんだという点を考えなければならない」。国会議員や“国家”公務員に限らず、定収入が確保されている国民に、一律の給付があったならば、それを困っている人(業態)に寄附してもらいたい、その為の仕組みを作ると何故言えないのだろうか。国民が納めた“税金”でさえ出し渋るのだから、まして彼の懐からは1円たりとも“他者”に向けた金が出ることはないのだろう。
 これから先、日本語学習を支援している留学生たちに再会したら、私はどんな顔をして彼らに会えば良いのか、今から途方に暮れている。

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