在日コリアンという存在2019年04月26日 12:19

画廊をハシゴした翌日、再び神保町へ。水道橋寄りにある在日本韓国YMCAビルで開かれた「在日コリアン文学研究シンポジウム」を聴講した。このところ一篇の小説も読んでいないのにという負い目もあったが、予約しておいて行かないのももったいないので、朝から出かけることにした。
 この建物へは過去に数度訪ねたことがある。一番最初は2012年に上演された李商在(大韓帝国時代の開化派運動家)を主人公にした演劇鑑賞だった。韓国語を習い始めたばかりで、わけもわからずに韓国に関連した無料のイベントを訪ね歩いていた頃である。もちろん、この場所が三・一運動に先立つ日本国内での二・八独立宣言が発表された場所であることをその時初めて知った。
 シンポジウムは盛会だった。あたりまえの言葉が信じられなくなってきた時代に、文学について語る機会そのものが減ることへの危機感だろうか。一方で韓国文学ブームとも呼ばれるような動きも起きていて、わずかな関心でのぞいてみた門外漢にはそのあたりの事情が良くわからないままだった。登壇者の発表はどれも興味深いテーマではあったが、割り当て時間が短く、無料で配られた大部の報告集の内容を要約せずにそのまま読むため、とてもせわしないものになった。言いたいことがたくさんあることは解るのが、もう少し要点を絞って話してもらえたら印象に残ったものも多かっただろうに、とても残念である。
 私が在日文学に関心を持ったきっかけは、おそらく文学そのものからではなく、李恢成の小説を映画化した小栗康平の「伽耶子のために」の印象が強かったからではないかと思う。「泥の河」に続いて撮影されたこの作品は、前作同様静謐に覆われた映像と、この国の底辺にある“なんとも形容しにくい”感情を表現した傑作だと思う。深いところで心を揺さぶられた。いわゆる出自や環境の違いという次元を超えた、アイデンティティの揺らぎというものがあることを、その時に初めて意識したように記憶する。
 それが、尾を引くように残っているからこそ、今も「境界」をテーマにした小説に惹かれるのかもしれない。

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