言葉の力の対比2019年04月26日 12:21

名前を聞いたことはあるが、詳しいことは全然知らないという人物は多い。金子文子もその一人だった。いや、今もよく知っているわけではない。少し前に横浜のミニシアター「ジャック&ベティ」で韓国映画『金子文子と朴烈』を観た。関東大震災後に治安維持法の予防検束によって捕らえられ、恋愛関係にあった朴烈と共に大逆罪で起訴され、その後獄死したという女性。いわゆる大正デモクラシーという社会思潮とは正反対に、抑圧された社会に抗する運動が拡がる中で数奇な運命からアナーキズムに接近し、まつろわぬ同志と出会ったことで急進的に生きることを選ばざるを得なくなった人という気がする。
 もちろん、映画のヒロインとしての金子文子は、美しく、賢く、自由な女性として輝いている。だから、その死は描かれない。いつまでもチェ・ヒソの不敵な笑みと真っ直ぐな瞳だけが強く印象に残る。残された獄中日記を読めば、捕らえられてからの思想の深化も確認できるのだろうが、どちらかと言えば、何かに殉じた人のように思えた。それは、彼ら二人を大逆犯として利用しようとする内務官僚のその場しのぎや、首相を始めとする内閣首脳陣の無策が際立っていることと対照をなす。そこには言葉の力の対比も感じられた。
 しかし一方で、観終わった後に何か舌で取り切れない口内の食事滓のようなものが意識に残った。一つには朴烈のその後を考えたからだろうか。いっそフィクションであれば違うのかもしれない。どちらかといえば、一つのヒロイックな物語ではなくて、巷の人々の意識がどのように変わっていくことで歴史が動くのかに関心がある。もちろん、そのキッカケは無名であれ多くの“自由な個人”から生まれるものだろうが…。

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