“名付け”という縛り2018年06月24日 23:01

 江戸落語は“語り”ではなく“噺”だと以前ここで紹介したことがある。ただ、元々が説経語りから生まれた落語だから仏教に関する演目は多い。当然、お寺や和尚さんを題材にした「落とし噺」も数多くある。たとえば仕草だけで偽和尚に化ける「蒟蒻問答」などが有名だ。
 その仏教に深い関係を持つ落語の口演と仏教関係者の対談を組み合わせた催し物に行って来た。「落語の中の浄土真宗」実行委員会が毎年開いている落語企画で、今年は「誰そ彼」と題されている。つまり「名づけるということ」がテーマである。
 落語は林家三三(さんざ)師匠、演題は「寿限無」と「万金丹」だ。前座噺として良く知られている「寿限無」は生まれた子どもの名付けの噺。縁起が良い名前を全て並べて付けられた子どもは、事ある毎にその長さで様々な騒動を引き起こす。元の噺は、その長さが原因で河に溺れたまま死んでしまうというブラックジョークだったらしいが、後に改作され「子ども落語」などでも良く話される演目になった。その「寿限無」を、今一番油が乗っている落語家のひとり三三師匠で聴くというのも乙なものである。落語のお手本と言えるような高座を体験する機会となった。
 もう一席は、一度袖に降りての「万金丹」。上方落語の「七度狐」の一部を抜き出した噺だが、こちらは戒名、つまり亡くなった人の名付けの噺。江戸で食い詰めた二人連れが寺に一夜の宿を借りたことから、雨の足止めが明けた後も居候の出家身分となる。和尚が本山へ行く間の留守を頼まれたところに、近在の檀家から葬儀に際して戒名を付けてくれとの依頼が舞い込む。そこでWikipediaならぬ薬の効能書きから名付けたのが「官許伊勢朝熊霊宝万金丹」。勝手な解釈を披露してその場を凌ぎ、最後は白湯のオチで締める。“名付け”そのものを茶化したような演目だ。
 第二部の対談はこの落語企画に初回から出演している宗教学者の釈徹宗さんと真宗本願寺派総研東京支所の橋本順正氏。釈さんは大阪池田市の如来寺住職でもある。昨年の節談説経口演の解説以来、話を聴くのは4回目。博覧強記の上に話が巧い。近頃はテレビの悩み相談にも出ている。以下、簡単に箇条書きで紹介しよう。
 “名”は“呪”を呼ぶ。だから知られてはいけない。近代に個人が確立する前は、高貴な人間には諱があった。
 “名付け”とは縛りを作ること。だから、それに当たらぬものを排除する。
 名前は本来変わるもの。成人になるとき、何かに帰属するとき、然るべき立場に立った時、人は名を変える。そうした通過儀礼の変名の文化が失われた。成人で名前が変わったらどうだろうか。“名”に相応しい責任感が生まれるだろうか。
 近代国家は国民を必要とした。だから、「徴収、徴税、徴兵」の“徴”を付けて管理した。
 「南無阿弥陀仏」と仏の名を唱えることで名号が身体の中で働く。“空”を仏が満たしてくれる。
 信仰の告白は唱えることというのが世界の宗教者に共通している。
 東アジア漢字文化圏で出家するものは、受戒の際の法名が“釈”となるそうだ。元々、五胡時代の中国僧道安が始めたもので、仏弟子としての縛りと言えるかもしれない。ちなみに、釈徹宗さんは本名だそうだ。