情報の離散化による思考欠如2025年08月06日 17:27

過日、この欄に書いた文章の中で“情報の離散化”という表現を使いましたが、あらためて考えてみると、デジタル化とはアナログ情報を離散・微分化することそのものです。コンピュータで処理するために標本・量子・符号化された情報は、それまでの連続性を断たれた形で処理・記録され、ときに膨大なデータ量を圧縮するためにDCTなどのさらなる離散手法が施されます。
 しかし、このデジタル化による情報の“離散”がもたらしたものは、あらゆる情報を処理できる「合理性」と引き換えに、脳の記憶による「連続性」を失うことにつながったと思います。たとえて言えば、脳細胞のシナプスが次々と切断され、時空を超えてつながる思考回路が作れなくなったようなものです。数年来の生成AIの急速な展開は、失われた思考回路を「予測」で擬似的・類似的につなぐ大規模なデジタル化の様相とは言えないでしょうか。
 小さい画面の中に、膨大なデータを持つデジタル情報が短時間で次々に現れ消える状態は、シナプスが減少した脳には大きな負荷となります。そこでは、既にコリジョンやコンフリクトが起きているはずです。さらに、体感の一部に過ぎない視覚ばかりに、再生速度の上がった大量の画像情報が流れ込んできたらどうなるでしょうか。おそらくそれは、思考処理できないまま捨てられ、情動にさえも育たない感覚神経の反応程度に収まるような気がします。そして、そうした積み重ねは、いずれ人間からモノを考える能力を失わせ、AIに左右される末路へとつながるかもしれません。
 ところで、最近は少し関心が薄れているのですが、以前に留学生を通じて知った短編アニメーションの世界に「砂絵」という技法がありました。透過光が通る透明な板の上に置かれた砂(ときに多色)を様々に手で動かしながら次々にシーンを生み出す表現は、いかにも“アニマ”にふさわしく、その“連続性”こそが記憶を呼び覚まして脳を活性化する力になっているように感じます。わずかな時間で消えていくものであるにもかかわらずです。それは、集合・積分化する情報のようにも思えます。
 乱読ばかりで、およそ関連の無い読書を続けていても、ときにデジャブのように浮かび上がってくる思念には何かが繋がって感じられることが多くあります。もしかしたら、それが人間の意識というものの源なのかもしれません。

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