特製ビビン麺2021年08月11日 18:58

本田朋美さんに触発されてビビン麺を作ってみた。ヤンニョムは無いので、タレのレシピをネットで見つけ素麺に和える。豚肉はしゃぶしゃぶ用、キムチは白菜とゴボウ。梨は先日届いたばかりの大分県山国産の“幸水”を使う。まだ、インターネットもない30年前から毎年取り寄せているものだ。
 ごま油と酢と砂糖のバランスがやや不安だったが、麺に和えるとちょうど良かった。肉とキムチは途中でお代わり。酷暑にぴったりの涼味である。医療崩壊が現実のものとなった以上、出歩くことがますます減ってゆくなか、通常の医療も受けずにこの夏を無事に乗り切るための免疫力を高めたい。

コロナ五輪の遠因?2021年08月12日 19:00

もう、誰も覚えていないかも知れないが、先日第一幕が終わったスポーツ大会に「エムブレム」として当初使われる予定だったデザインが、盗用の疑いから組織委員会によって撤回されたのは6年前の話である。アルファベットの「T」を中心に赤丸を添えたシンプルなものだが、そのモチーフ「T」が表すメッセージは「Tokyo, Team, Tommorow」で、赤丸は「鼓動する心臓」だったそうだ。何やら“今この時”を暗示しているような気がしてならない。
 そもそも、このデザインで評価されたのはパーツに分けた展開例だと言われているが、その展開例を示すビジュアルに使った写真が無断で転用したものだった。その後も、問題は次々に派生し様々に拡がったが、それは最初から予想されていたのかもしれない。なぜなら「T」はTroubleの頭文字でもある。

色褪せた言葉と物語2021年08月18日 19:01

この秋から1年間研修留学生として来日する予定の韓国の大学生と日本語オンラインレッスンを行った。留学先に決まった大学からの質問に応えて既に提出済みの文章(大学側が日本語能力を確認するために何も参考にしないこと条件に書かせたもの)について話し合った。その中に出てきた「望ましい」という言葉が、この10年弱の間に急速に色褪せてしまったことをPC画面を通して“私見”として述べた。
 信頼関係を元にした言葉のやりとりが最も必要な場所でさえ、字義の通りに受け取れなくなっているような数々の言葉の残骸の一つに思えたからである。現実から目を背けるつもりはないが、この数日、オンラインレッスン以外は、なるべく「物語」に沈潜している。なぜならば、そこに出てくる言葉の方がはるかに信じられるからである。

戦時の衛生対策は?2021年08月22日 19:02

太平洋戦争末期、武漢からマリアナ諸島へと移ったアメリカ軍の出撃拠点と日本本土の間にあって激戦が繰り広げられた硫黄島は、クリント・イーストウッドの映画作品などでも良く知られているが、3年半にわたる太平洋上の島嶼戦闘で、唯一アメリカ側の死傷者が日本側のそれを上回ったという。
 島民を疎開させ、地下陣地を構築し、従来の水際作戦を大胆に変更した栗林中将の守戦方策が功を奏した結果、この戦いによる死傷者はアメリカ側約2万9千名に対し、日本側は2万1千名だった。
 しかし、この死傷者の「内訳」は大きく異なる。日本側の死者は死傷者全体の95%だが、アメリカ側のそれは25%に満たない。それはなぜか。
 アメリカ軍は最前線においても負傷者の後送を含む衛生対策を十分にシステム化していたからである。海岸近くの戦車揚陸艦内に野戦病院を造り、そこで処置できない負傷者は艦隊に守られた沖の病院船に運ぶ。そこでも処置が難しい場合は、テニアン諸島の陸上基地へ搬送した。それらの対策に“加えて”、血液配送センターも設置したという。

夜空の星の追悼劇2021年08月23日 19:03

中学から高校にかけての一時期、星空をよく眺めていた。別に例えて言うならば“夜遊び”をしたかったからなのかも知れない。今と比べれば横浜の夜もまだそれほど明るくはなかったので、中心部から離れた磯子の奥でなら流星群もそれなりに見えた。だから、今でも星座の形を覚えている。
 コロナ禍の中、以前訪れたこともある西新井のプラネタリウムで宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を題材にした音楽朗読劇が開かれ、その内容がオンラインで無料公開された。昔から“賢治”の童話はそれなりに読んできたものの『銀河鉄道の夜』だけは苦手だった。それでも、多くの作家が様々な解釈で翻案したものをいろいろと観てきた経験はある。何と言ったら良いのか。気になる作品なのだ。
 今回の朗読劇には“能による”という言葉がタイトルに添えられていて、この作品を貫く“追悼”の意味合いが強くなっている。“賢治”という人そのものの複雑さを表すような重層的な夢想が繰り広げられる作品を、あまり脚色せず、わかりやすい解釈に陥らないよう人形や古楽器なども使いながら描いている。
 もともと、“わかりにくい”ということを引き受ける心持ちがあってこそ近寄れるような作品なのかもしれない。だから、解釈はひとそれぞれに委ねられるだろうし、何度も繰り返し書き換えられ、その一部が欠落してさえも惹きつけられる。