言葉のブルシット化2021年03月19日 18:41

昨年話題になったグレーバーの『ブルシット・ジョブ』を引き続き考えている。“どうでもいい”仕事が増えている原因の一つに、煩瑣な書類仕事が増えていることがある。「以心伝心」のような他者との濃密なコミュニケーションが衰退し、何でもかんでも「要領」に依存しなければ判断できないような精神的貧困が蔓延した。賃仕事はおろか、収入に直結しないNPOのボランティア活動でさえ、細則に縛られて身動きが不自由になりつつある。
 その一方で、税金を扱う公的な仕事に携わる政治家やそこに従う官僚たちの“おざなり”な発言が連日のように報道されるのに驚く。いや、もしかしたら国権の最高機関の一つである国会を軽視し、そこで行われる議論を“ブルシット”化している現政権そのものが用をなさないジョブなのかもしれない。賃仕事の中で、いやなことから逃げる代わりに自分で仕事を見つけてきた多くの経験から言えば、今の世の中の情報消費を含めた一方的なサービス受容は控え、あやしげな“市場原理”や“経済合理性”の仕事からいかに遠ざかってみるかを考えて見ることも重要だろう。
 留学生の日本語学習を支援して気が付いたことの一つは、日本語は“場”の言語であるということだ。何らかの情報が交わされる場面で、繰り返し“理解”を促される。そうした時、“私は”という一人称の発言をとりあえず脇に置いて、その場で通用する“共感”を示しながら、同時に俯瞰してみることが、この国の言葉の本質的な理解につながる。
 社会的ディスタンスが喧(かまびす)しい世の中になっても、習慣は簡単には変わらない。ただ、“個”になることをもう一度考え直す機会が訪れた後には、少しずつ自立する、いや、せざるを得ない人々がきっと現れてくるような気がする。その時、言葉も新しく生まれ変わる可能性があるのではないか。
 そんなわけで、今年の春こそは、桜を愛でずに新しい何かを探してみるというのも一興ではないかと思うのだが、宣言解除後の人の流れはいったいどうなることだろうか。