江口にみる“わきまえない女”2021年02月22日 18:34

道を探し歩く夢を見た。迷っている素振(そぶ)りはないのだけれど、同じ風景が繰り返し現れる。あまり焦ってもいない。現実世界の先行きが良く見えない代わりに、自分自身を落ち着かせているのだろうか。実は夢には同行者がいて、その昔良く観ていたドラマの女優に似ているのがプチ贅沢と言えるかもしれない。
 先週末、平塚で『和田酒盛』という“曽我物”復曲能の公演があった。あいにく別用があって鑑賞することはできなかったが、この演目にも出てくる大磯宿場の“長者”の娘「虎」は、主人公十郎の想い人であり、仇討ちで名高い兄弟の物語を広く伝えた人としても知られる。後に出家し、長野善光寺へ回向参りをするなど、菩提を弔いながらの問わず語りがあったかもしれない。強い想いが後世に謂われを残した典型とも云える。
 さて、この演目で復曲に携わり、公演でシテを務めた加藤眞悟先生の過去の演目の一部が、「舞台芸術の未来に繋ぐ基金」の支援を受けてDVD化されたことを知り、その内の一つ『江口』を買い求めた。2017年の主催公演「明之會」からの抜き出しである。能は本来“神”へ奉納する儀式のようなものだが、見所(けんじょ)に立ち会うのではなく、映像記録として視聴することで古典演劇を客観的に観る機会にもなった。
 実は、今回『江口』を選んだ理由はいろいろある。ワキや間狂言にも馴染みの方が出ていたり、「序の舞」と呼ばれる能の中でも一際静謐な舞姿を観ることができるほか、慰霊と仏教の習合を今に伝える貴重な演目であることもその一つだった。そして、もう一つ。ここに出てくる遊女の姿が、西行法師を相手に歌を返した“わきまえない女”の原型のように見えたからでもある。
 天王寺参りの僧が思い出した故事を、里の女が糺(ただ)さんとする。伝承のあるべき姿は、中入り後の間狂言の詞章によって引き継がれ、後場(のちば)で普賢菩薩の“奇特”が現れる。それは、正史に残ることのない矜恃ある衆生の声を、“江口の君”を通じて届ける仏の声に聞こえた。演目の最後、西方に消えゆく後シテに向かい、ワキの僧が手を合わせる姿は、その声を確かに聴き留めた象徴のようにも思える。その延長なのかどうかは分からないが、この文章を書いている最中に、なぜか映画『泥の河』を思い出してしまった。
 そういえば、序の舞を見ていて一つだけ想像したことがある。途中、左手に持ち替えた扇が示していたのは法華経だったのではないか。見所にいなくても勝手な妄想だけはできる。