“あはひ”を演じる2019年04月02日 11:58

広告塔という表現がある。さしづめ現政権にとってのそれはNHKのニュースだろうが、昨日のテレビ欄の朝から夜まで“新元号”に貫かれたさまは、まさしくその比喩を明らかにしたものだった。テレビを見なくても、新聞のテレビ欄を見れば、メディアが世論をどのようにリードしたいのかは読み取れる。そして、それが現実の単なる一部に過ぎないことも理解できる。
 実際、昨日都心へ芝居を観に、行き帰りした際、この話題に触れた会話も情報も耳目に触れることはなかった。もちろん、他人のスマホ画面を眺めたわけでもないので、私が接しうる範囲でのことではあるが…。もしかしたら、エイプリルフールに慣れた日本人の一般的な反応だったのだろうか。いずれにしても“新元号”の狂騒とは無縁の一日を過ごした感が強いのは、東京早稲田まで観に行ったある演劇の印象が極めて強かったせいかもしれない。
 その芝居を知ったのは、平素読むことの多い能役者安田登さんのツイッターである。「能」という伝統的な世界で生きる人にも関わらず、多彩な人生経験と人間関係の上に、稀に見る博覧強記が加わって、ちょっと凡人にはとらえどころがないのだが、なんというか言葉は悪いが天性の人誑し(ひとたらし)のようなところを感じる。つまり勧め上手だ。広尾東江寺での寺子屋はもちろん、今までにも土取利行さんの唖蝉坊演歌などを知る機会ともなった。
 さて、劇団の名前は「あはひ」。早稲田大学の現役学生が主宰で、昨年旗揚げしたばかりという。演目は「流れる -- 能『隅田川』より」。「能」を取り上げた理由が配布された資料にある。演劇という「常に未完成の、揺らぎ続ける表現」だけが「幻視」を写し取ることができるのではないかという希望からだ。この『隅田川』、能では渡し守を演じるワキ方安田さんの語りを以前直接耳にしたことがある。わずか2mほどの距離だった。そんなこともあって、終演後に劇団主宰の大塚健次郎さんと安田さんの対談がある最終日を予約して観に行った。
 演劇の感想を書くのはとても難しい。再現できない“場”を言葉でいくら説明しようとしても無理があるからだ。それでも少しだけ書く。芝居のところどころに「能」から採った仕掛けが施されている。それは劇団名にもなっている「あはひ」を表現する手法としてそれが最も親和性が高いからだが、たとえば芭蕉と曾良という実在の人物を登場させても、何の違和感もないほど懐深く飲み込んでしまうのも異界を現す「あわいの力」なのだろう。身体の中の変わらない記憶は鉄腕アトムに表象され、タバコの煙を繰り返し抱き続ける狂女の姿が流れる水面にいつまでも映し出されるような不思議な余韻が残った。
 もちろん、目に見えるところでも、舞台下手に塚のように置かれた箱馬を正面に持ってくるところなど、ツレが舞台設定をしている所作にも見えて面白かった。一方で、コミュ障を忌避するような饒舌な台詞群は年若い作者の日常言語を強く感じさせたし、囃子ならぬジャズトリオによる音楽の何とも言えない重さが全体を締めているようにも思えた。早稲田小劇場ドラマ館という小さな小屋から出発した劇団だが、比類の無い演劇を目指すような挑戦は、来春下北沢の本多劇場で花開くかもしれない。

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