中天にある奈落の世界2019年12月27日 19:10

今年、都心を抜けて山手線の東北側へ行くことが多かった。駒込や鶯谷、亀戸や北千住など、江戸の地名を残しているところを訪ねては、古典や伝統芸能などを聴いて回った。西新井もその一つである。電車を乗り換えて、お大師様に詣でたわけではなく、近年住みやすいと外国人にも評判の足立区が、子供のための体験型複合施設として建てた「ギャラクシティ」で開かれるイベントに参加した。細かく言えば、そこにあるプラネタリウムを使ったドーム映像の上映と、その内容に繋がりのある古典劇の上演を観たのである。題して「冥界(かくりよ)から現世(うつしよ)へ」。
 西新井駅で降りたのは初めてだ。駅南側にある大きなショッピングモールで夕食を済ませ、北側の「こども未来創造館」へ向かう。プラネタリウムは、その昔、渋谷の東急文化会館や桜木町の青少年センターで観たそれよりも、ずっと臨場感のある大きなスクリーンになっていた。観客席も急な角度で設置され背もたれは大きく反らない。もちろん、映し出される映像の明度・精細度も格段に上がっている。
 長く映像関係の仕事をしてきたものの、大画面や臨場感にさほどの魅力を感じない質ではあるが、おそらく初めて観たドーム映像には強い没入感があった。それは上映された『HIRUKO』の内容によるところが大きい。日本の神話、その国生みの過程で最初に生まれた未熟児“ヒルコ”を題材に、顔ならぬ“顔”や声ならぬ“声”、そして身体全体で示すような肉体表現と自然を模したような様々な映像が渾然一体となった不思議な作品である。
 ドーム映像は座っている身体に正対するというより、上から覆い被さってくるか、奈落(あるいは宇宙)の果てへと墜ちていくような感覚に包まれる。特に、映し出されるものが、息が継げない魚や、声が出せない顔、自由に動かせない身体など、何かに強い抑制を受けたものだと、観ている側も“金縛り”に似た感覚を持つ。その頂点が白い枯れ木で覆われて葬られるようなシーンだった。そして、生まれたばかりの血にまみれた身体を表すような衣装をまとい、何か見えないものに押さえつけられながら進む身体の動作や移動の果てに、奈落のような“天”が待ち構えているように思えた。
 イベントの後半は能楽師安田登さん率いる“ノボルーザ”の舞台「イザナギの冥界下り」。『古事記』の国生み神話を題材に能装束や人形によって行われる台詞劇である。太鼓や笙などのシンプルで深い音を背景にして、国生みまでの二柱の神の遣り取りや、彼らが産み落としてしまった“ヒルコ”が自らの存在の“儚さ”に惑う様子、冥界に下ったイザナミとイザナギの駆け引きなどが描かれる。異形のものへの畏怖を象徴するかのような“ヒルコ”の物語は、隠そうとしても隠しきれない人間の深層を表しているかのように見えた。

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