権威主義と最も遠い裁判官2019年08月03日 16:45

今日の「報道特集」の二つ目は元裁判官の木谷明弁護士への密着取材だった。千に一つあるかどうかという控訴されずに確定した無罪判決を、30件も出した人である。冒頭、刑事裁判で一番大事なことは何かと問われると、間髪を入れず「端的に言えば、やはり無罪の人を処罰しないということですね」と答えた。
 また、先日「再審開始決定を取り消さなければ著しく正義に反する」と、一・二審の開始決定を最高裁第一小法廷が全員一致で取り消した大崎事件の記者会見を受けた形で次のように述べている。
 −−−最高裁がああいう形で取り消すというのは、最高裁が「自分は神様」だと言っているのと同じですね。司法に対する信頼というのは裁判所が「自分は間違っていなかった」と言い張るのではなく、裁判所も人間だから時に過ちを起こすと…。その過ちを率直に認めると…。それが裁判所なんだと国民に思ってもらわなければ司法に対する信頼はつなげない−−−
 永く司法の現場を歩いてきた人だから、後輩達へのかすかな希望を込めた言葉になったのだろう。しかし、木谷氏のような人は例外中の例外だ。
 前述した“正義に反する”という一言で、下級審の審理を足蹴にしたような判断は、権威主義の権化のようなものだ。しかも、その結果が一個人の人生を大きく左右する重要事に対する真摯な態度から、およそかけ離れている。もちろん、こうした人間が裁判所にいるということ自体は別に驚くに価しない。
 この同調圧力の高い日本社会で権威主義は裁判所にとどまらないからだ。政府・企業から街の小さなサークルまで、“異議申し立て”をすることへの忌避は、何かに隷属することが保身となるような精神構造を生み、あらゆる場面で“権威主義”の蔓延につながっている。そしてそれは、“忖度”などという甘い言葉で表現される状況のはるか先にもう進んでいる。最近耳に入る多くの事件報道が、その一点に収斂するかのように私には思えてならない。