素朴な豊穣2018年05月07日 21:23

 GWの最終日、都心を越えて埼玉県は草加市まで足を運んだ。市政60周年記念事業として開かれる古浄瑠璃の公演をあるWebページで知り、今時珍しい往復ハガキ限定という応募に申し込んでいたのだ。もちろん、主な対象は市民なので入場料も安価である。市の事業であり、私のような他市から聴きに来る聴衆をあまり多くは想定していないのだろう。しかし、その内容は十分に魅力のあるものだった。
 古浄瑠璃『弘知法印御伝記』三段の公演に先立って、四人のゲストによる鼎談があった。国内に現存していなかった同作の浄瑠璃本を大英図書館で見つけた鳥越文蔵氏、その鳥越氏の留学を推薦したドナルド・キーン氏、その養子である越後角太夫氏、俳人黒田杏子氏。いずれも伝統文学・芸能に通じている人たちだけに、鼎談の時間配分がわずか20分弱というのは大変もったいない話ではある。
 さて肝心の公演だが、時間の関係で全六段のうち初段〜三段が披露された。浄瑠璃語り(佐渡の文弥節)は初段・二段が説教祭文で馴染みの渡部八太夫さん、三段目が越後角太夫氏。人形は猿八座の皆さんが演じた。あらすじは“Wiki”などにもあるので省略し、観て感じたことを書くことにする。
 近松門左衛門の作品など江戸の文学として残る近世の浄瑠璃と違い、最初の三段を観ただけでも、様々な説話を入れ込んで作られていることがわかる。長者の放蕩息子、悪友と無頼者と馬子、母子の死別、オオカミ、仮寝、仏法による悪霊退治など、大変バラエティに富んでいて、観客を飽きさせないための工夫がふんだんに盛り込まれている。なんというか素朴な豊穣さに満ちているのだ。芸能として洗練され格式を持つようになる前の姿がそこにある。たとえば、馬子が馬上で抜刀するような荒唐無稽な演出もあり、外連味があって“いかがわしい”とさえ言えるのかもしれない。誤解して欲しくないのだが、“芸”そのものの巧拙とは全く別次元の話だ。もちろん、文楽の人形遣いと違い、猿八座の浄瑠璃は一人遣いであるから、表現の繊細さに欠けるところはある。しかし、その制限の中でこそ生まれる動きそのものがまた“芸”でもあると思う。
 そういう意味で、初演から語りを勤めてきた越後角太夫氏の文楽を彷彿とさせる高く張りのある声よりも、説経祭文を自在に操る渡部八太夫さんの語りの方が個人的にはしっくりくるところがあった。残りの半分を聴く機会が早く訪れることを願っている。

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