日中伝統芸能の交流2023年07月25日 20:44

コロナ感染者数の全数把握を止めて定点観測で蔓延状況を確認するしか無くなった夏に猛暑が続いています。状況に応じたマスクの着用や熱中症対策となる飲料水の携帯など、“生活様式”は個人の判断にまかせられ、無策以上の苛酷な悪政を拡げる現政権に期待する声はもうとっくに途絶えたようです。
 さて、酷暑の日中を避けて、久しぶりに夕方から東京へ出かけました。向かったのは代々木上原にある梅若万三郎家の能舞台。普段は主に“研能”や稽古・講座などに使われる場所で、舞台の回りの座敷に50人程度の見所があります。この日開かれたのは「昆曲×狂言」と題した中日二つの古典芸能ワークショップ。和泉流狂言方の奧津健太郎さんが企画したものです。
 以前より交流のある中国古典芸能「昆曲」の趙津羽さんが来日するのを機に、二つの伝統演劇を比較しながら紹介する催しを開くことになりました。「昆曲」は中国で600年以上の歴史がある最も古い演劇形式で、後に隆盛する京劇に先立つ芸能です。京劇より装置がシンプルな分、演者の身体全体を使った感情表現がとても豊かです。
 「蘭花」と呼ばれる手指の形が美しい。いくつもある形を五指の組合せで様々に表現しますが、それを左右前後に入れ替えたり、大小の回転運動と併せて、登場人物の感情を表わします。また、豊かな表情の中で際立っているのは目の動きです。視線が動くのはもちろんのこと、微妙な瞼の開閉にも想いを込められます。さらに、そこに扇が加わって、直に対する相手や想う人への感情がより強調されたり、開いた扇の中骨を通して見るような仕草もありました。
 「昆曲」では、演者の役柄がほぼ固定されているようで、趙津羽さんの試演はいずれも16〜17歳の女性ですが、『牡丹亭』では深窓に育った娘、「紅梨記」では芸妓を演じ分けました。公演ではないので、単衣の衣装で芝居の化粧も施しませんが、その身体表現はとても素晴らしいものでした。
 話はそれますが、イベントの通訳を担当した日中交流協会の方の声が聞き取りにくく、能舞台から4mほどのわずかな距離なのに、その場に吸いとらているように声が小さく感じました。一方、演者であるお二人の声は全く問題なく届きます。実演よりは明らかに小さな声量にも関わらず、何故かクリアに響きます。普段から声を出す仕事とは言え、その“届かせ方”には専門家の芸の一端を感じました。

 先の投稿で狂言のことを書くのをすっかり失念していました。ワークショップということで、装束を付けない袴狂言を奧津健太郎・健一郎さん父子が演じています。演目は『杭か人か』。内弁慶の太郎冠者の本心を探ろうと留守を任せた主人が、物陰から留守番の様子を伺います。実は臆病者の太郎冠者は庭石も人に見えるほどの怖がりで、その様子は屋敷の外の暗がりが目に浮かぶほどです。藝大邦楽科にも通う健一郎さんの見事な仕草を間近に見ることができました。
 健太郎さんの方は『名取川』の小舞。健一郎さんの謡を背に、扇を笠に持ち替えての舞は、同じように両手で扱う槍や棒とも違い、能狂言の標準的な型に回転運動を加えたような滑らかさに満ちていました。これは能舞台でもう一度じっくり観てみたいものです。