スープという信頼2023年05月01日 19:20

以前に日本語学習を支援した元留学生の引越先へ昼食の招待を受けて行ってきました。久しぶりの対面の再開で母国風ランチをご馳走になり、持参したコーヒーを淹れてもらって飲みながら、いろいろな会話を楽しむことができました。
 その中で、話題になったことの一つが臨場感です。無料チケットで観戦したVリーグの試合が、テレビ中継とは違う現場の高揚感に溢れていたそうです。フルセットの1点を争う試合展開もさることながら、観客に対する鑑賞制限が少なくなってきたこともあって、何より“その場”に臨んでいる身体が、環境に大きく反応したのでしょう。
 ライブということでは、能・狂言の舞台も同様です。ただし、そこには熱狂的な応援ではなく慰霊につながる空気が充満している違いがあります。事前に詞章をしっかり読んで理解した上で見所に赴くのは、いざ舞台が始まったら、演目の内容理解以上に“その場”に立ち会っていることを体感したいからだと思うのです。意味のわからない言葉を聞き取ろうとする営為が、身体を置いている“その場”の感覚そのものを鈍らせるような気がします。あの没入感覚が生まれなければ能・狂言の面白さは半減するはずです。
 能や歌舞伎などの伝統芸能に限らず、演劇一般の映像が記録・公開される時、なぜ劇場全体を俯瞰した映像を独立して出さないのでしょうか。その場にいれば目の“端”に映る舞台の“隅”の様子や、見所全体の“雰囲気”を想像できるはずなのです。それは、スポーツ中継などでも同様だと思いますが、カメラスイッチングや編集を行う人間の個性によって切り取られた映像だけを見せられることに多くの人は慣れてしまっています。映像記録の高密度化が進んだ頃、8chビデオのようなものが夢見られました。編集者の目で切り刻まれる前の多ch素材を自らが選ぶことができることへの要望です。しかし、それは実現しませんでした。なぜならば、いくら高精細度で多chの映像や高臨場感の音響があったとしても、それは“その場”ではないからです。
 関連して思い出したことが一つありました。くだんの留学生の日本語論文をチェックしていた時のことです。アニメーションによるドキュメンタリーを考える論考の中で、映像記録という行為が被写体に影響を与えることを説明する的確な表現がなかなか見つかりませんでした。後刻、ようやく思い浮かんだのは「可塑性」という言葉です。カメラによって日常に介入した行為が、その被写体に何らかの波紋を投ずることを表したつもりです。
 不正確な情報を含む膨大なテキストデータから、いかにもな応えを差し出してくるChatGPTのようなものに頼らず、意味を含めた言葉の表現を考えだした時のことは今も忘れられません。その時のメールの遣り取りは自戒をこめて、これからも残しておきます。同時に、映像が現実のほんの一部しか切り取っていないことをメディアリテラシーの基本として考えることも、これからの時代には必要でしょう。身の回りに溢れる情報がフェイクだらけという未来はもう目の前に来ています。
 もしかしたら、一緒に食べる手作りのスープの中にこそ、本当の“信頼”があるのかもしれません。