天籟能2019年06月13日 13:55

2年ぶりの「天籟能(てんらいのう)」の演目は『船弁慶(ふなべんけい)』だった。先週末、渋谷のセルリアンタワー能楽堂で仕舞『桜川:網の段』、狂言『謀生種(ほうじょうのたね)』と併せて観た。地下3階へ降り竹矢来(たけやらい)を模(も)した通路を抜けて初めて訪ねた空間は、こぢんまりとしていた。見慣れた大きさの能楽堂を小さな見所が取り巻いているようで、一体感が生まれる感じがした。一方で短い橋掛かりに比べ、見所(けんじょ)の植え込みの松が少しバランスを欠いているようにも見えた。もちろん、演能している時にはほとんど気にならない。なぜならば、切戸口(きりどぐち)から目付柱(めつけばしら)を通ってそのまま延ばしたライン、すなわち見所を含めた能楽堂の平面図を右上から左下へ斜めに引いた線から一度も右側で観たことがない私には、遠近を見立てる松を同時に視界に入れることはほとんどないからである。
 開演冒頭はワキ方安田登さんと狂言方奥津健太郎さんの解説。通常“能”の会はシテ方の主催で開くものだが、天籟能は普段客演(?)する側が主催する。演目の紹介とあらすじ、そして見どころを説明するが、堅苦しくない雰囲気が徐々に見所の緊張を緩ませる。
 一番目は、面(おもて)を付けないシテ方の直面(ひためん)の舞と、4人の地謡(じうたい)による仕舞『網の段』。能『桜川』のクライマックスとも言える水面に落ちた桜の花びらを網で掬(すく)おうとする狂女の舞場面である。梅若万三郎師の端正な舞に圧倒される。
 二番目の狂言は、会えば嘘(うそ)合戦となる伯父と甥の話。壮大な“ほら”の吹き合いの果てにいつも負ける甥が、どうしてそんなに嘘がつけるのかと伯父に尋ねた答えが、演目でもある「謀生種」というオチになっている。動きが少ないだけに面白く演じるのはなかなか難しいと感じた。
 さて、最後の『船弁慶』は、3月からの東江寺寺子屋での様々なアプローチを経ていたせいもあって、シテの細かな舞の所作から囃子方とのせめぎ合い、“船”出から始まる狂言方の大活躍、知盛・弁慶の対峙(たいじ)など、見どころ満載の演能だった。なかでも申し合わせで決まったという静御前(しずかごぜん)の狩衣(かりぎぬ)着装はめったに観られないと思われ、烏帽子同様の舞台上での着付けはさながら現(うつつ)の白拍子を観ているかのごとく気高さが漂っていて、その舞にいつの間にか身体が引き寄せられるようなチカラを感じた。舞の途中で橋掛かりまで遠ざかるところは、悲嘆のあまり義経の近くにいることに耐えられなくなった静の心情が溢れたようにも見えた。江戸時代の庶民のように日常的に謡を知っていての観劇の面白さが少しずつわかってきたこともあり、今回も事前に詞章を読んで出かけた。皆、寺子屋での“学び”のおかげである。