アニメーションの詩人2016年11月02日 21:52


 日にちが前後するが、先週の土曜日には馬車道へ出かけた。東京藝術大学大学院の映像研究科が主催したコンテンポラリーアニメーション入門という講座シリーズの一環で、世界的に有名なユーリー・ノルシュテインの作品が上映され、監督本人の話を聴くことができた。

 「アート」としてのアニメーション作品に接する機会は日常少ないが、最近ではYoutubeなどにも作品の一部がアップロードされていて、どのような作品があるのかを垣間見ることができる。

 ノルシュテインの作品も、高解像度のスキャニングをした修復版がこの12月にシアター・イメージフォーラムで上映されるのに先だち、予告編が既に公開されている。

 しかし、たとえその予告編を見たとしても、実際の作品がどのようなものなのかはほとんどわからないだろう。高畑勲がノルシュテインの作品「話の話」を詳細に語った文庫本の副題に「映像詩の世界」とあるよう、それは最初から最後まで流れるような作品で、一部を切り出して見たとしても本物に迫ることはできないからだ。もちろん、全編を観たからといって理解できるというものでもない。ただ、少なくとも彼が作る世界に入り込むことはできる。

 元々画家を目指したノルシュテインは絵画の中に発見を求め続ける人だった。だから、動くコマの一つ一つに精魂を込めてしまうのだと思う。その彼が、初期の共同制作作品を創作する中で絵画に「息を吹き込む」ことに魅了される。そして、70年代に多くの傑作が生まれた。

 今回の講座は、200人を超える応募者が出て、90名定員の視聴室に入りきれず、多くの参加者が別の部屋や玄関ロビーなどで中継映像を鑑賞することになった。時間を勘違いして申し込んだ私は最後に近い予約番号だったので、玄関ロビーに設置された大型液晶モニターで会場の雰囲気を見聞した。当然作品も、会場を映すカメラがズームしたスクリーンの映像として観た。それでもなお、圧倒的な世界がそこに展開されているように感じた。なんと表現したらいいのか悩むが、とても優しくて、同時に端正でもあって、意識下に働きかけられるような不思議な作品だった。

 上映後の話の中で印象に残ったのは、プーシキンやキップリングなど多くの詩人の詩を諳んじるということだ。それは芸術作品を我が物とするほどに愛しているからに違いない。とても真摯で、情熱家で、語り尽くせない思いを抱き、学び続けることを怠らないような人だった。その一方、経済格差を生み出した資本主義の一面に強い憤りを感じる人でもあった。

 講演後の質疑応答で会場の若い観客から出た質問が、あの作品を観た直後とは思えない的外れなものであっても、作家としての姿勢で応えようとしていたことに敬意を表したい。「何を描こうとしているのか」という創る者として一番肝腎なことについて尋ねたのは、同じ実作者として古くから親交を深め、今回も隣で講座の進行を務めた山村教授だったことがとても印象的だった。

身の丈の生業とは2016年11月03日 21:39


 例の過労死のことが何となく気に掛かっていて、いろいろ考えているうちに自分なりの答えのようなものが頭に浮かびました。

 それは、“生業”(なりわい)に関することです。

 私は放送局というサービス産業に勤めていた頃、自分の仕事は何も生み出さない“虚業”だと考えることが多くありました。もちろん、放送番組を磁気テープに記録する具体的な仕事の有り様そのものは見えるのですが、そこにある“無形”のもの、あるいは“情報”と言って良いかもしれませんが、“かたち”のないものしか産み出さない仕事に何となく引け目のようなものを感じていました。ですから、お百姓や職人さんなど“かたちある”ものを産み出す人への尊敬がずっとあったと思います。

 父は理容師でしたので個人でサービス業を営んでいましたが、少なくとも髪の毛という“かたちある”ものには接していたので、二つの生業の中間ぐらいだったでしょうか。

 この道筋を頼りに考えたみたことは、“もの”を作り、手を加え、運び、使うという、“かたちある”ものに関わる仕事は、それを最終的に消費する“量”が限られているということです。“かたちある”商品経済は、仮にそれが大量消費されるようなものであっても必ず限りはあります。ましてや、なまものだったり、生きているものであれば、おのずから腐り、殺されたりもします。

 ところが、この“かたちある”ものへの付加価値が経済の中心を占めるようになって、しまいには“かたち”の無い付加価値だけが一人歩きするようになりました。

 付加価値であれば、消費に制限は無い。いくらでも新しいモノを作り、伝え、消費することができます。ユビキタスを目指すかのような情報消費社会で、それを望めばいくらでも“違ったモノ”、“変わったモノ”を選ぶことができます。たとえば、本があまり読まれなくなったと言われながら、実際は毎日のように書店に新刊が並びます。

 もちろん、それも需要あってのことですが…。

 昔から、本以外はあまり物を買わないこともあって、商品広告を見聞きしても、ほとんど関心が向かないところはありましたが、テレビを観なくなり、身の回りからしか関心を広げていかないでいるうちに、世の中に溢れる情報の洪水に一種の恐怖心さえ抱くようになりました。

 今さら“かたちある”ものを生業にはできませんが、“身の丈”にあった付加価値というものを考え直しても良いのではないかと思います。おかしなもので、そのような意識で情報を遮断していると、何故か自然と向こうから私を訪ねてやってくることが最近とても多くなりました。これは、シナプスの成せる技なのかと疑い始めています。

朽ちたものへいのちを見る2016年11月08日 22:15


 久しぶりに渋谷駅の外へ出た。相変わらずの人混みの中、246号線をまたぐ歩道橋を渡る。桜丘へ最後に行ったのはいつだったか。職場関係の忘年会かもしれない。もちろん、まだロゴスキーもあった。

 昔、ユーロスペースが2階にあったビルの1階に小さな試写室がある。そこで「いのちのかたち」という映画を観てきた。大倉山ドキュメンタリー映画祭の実行委員長も務める映像作家伊勢真一監督の新作だ。画家、そして絵本作家でもある“いせひでこ”さんの創作に関わる日々を追ったドキュメンタリー作品である。

 冒頭いきなり、そして映画の最後にも「じっと目をつぶる」「すると、何が見えてきますか」という“問い”が字幕だけで現れる。映画の中心は宮城県亘理町吉田浜に残ったクロマツの倒木。いせひでこさんにとって、その一つの“答え”がこのクロマツだったのだろう。

 立ち止まる。そのまま通り過ぎることができなかったのは呼び止められたから…。創作者が対象を見つける前の、そのわずかな瞬間を切り取ったような言葉。「奇跡の一本松」のように耐えて残ったものとは違う、津波に押し倒されたままのクロマツが発する“声”を風景の中に聴き取る創作者の感性は、そこに“いのちのかたち”を見たのだろうか。

 繰り返し見つめる子どものように、ただ見るのではなく、観察する。広葉樹が落とすどんぐりを模したような絵本「木のあかちゃんズ」、被災地の子供達との遣り取りや1000人規模のチェロコンサートへの参加など、創作の周辺が丁寧に描かれる中、目をつぶればクロマツが見えるように決して終わらない“問い”への“答え”として未完の創作は続く。

 宇宙の混沌の中に生まれ、泣くことを覚える赤ん坊。そして、原初の言葉である“ほほえみ”を周囲に向けるようになる。それは、どんぐりが芽吹き、1年そして1年と育っていく若木の成長にも重なる。いつかはクロマツのような大木になっていくだろうか。
 
 長田弘さんの詩といせひでこさんの絵が織りなす絵本の世界が映画の中に広がっているところは、伊勢監督自身の創作の姿勢とつながっているようにも見えた。それは、たとえばNHK「プロフェッショナル」の“流儀”のようにまとめられるものではなく、“問い”への限りない応答のような、対象への終わりのない向き合い方を示しているように思えた。

 11月19日から新宿K'sシネマにて上映

壁を作るということ2016年11月10日 22:17


 過去の名作映画を選んであらためて劇場上映する「午前十時の映画祭」というイベントがもう7年目になるそうだ。先日、なにげに横浜線の鴨居に近い映画館の上映スケジュールをWebページで調べていたら「続・夕陽のガンマン」という懐かしい名前が目に入って来た。初めは何のことかと思ったが、よく見ると特別料金になっている。実はこの作品が今年の上記イベントのラインナップに入った1本であることを知った。そして同時に、次に上映を予定しているのがロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」であることも。

 ロマン・ポランスキーといえば優れた脚本を元に数多くの秀作を世に送り出した名監督であり、私もあのシャロン・テートの「吸血鬼」以来、劇場上映やテレビ放映などを通じて彼の作品を何本も観てきた。ところが、評判の高かった「戦場のピアニスト」は未見だった。そして、今日それを初めて観た。

 日本公開当時、私が転勤で住んでいた佐賀市でも上映されたかどうかは知らないが、そもそも、いつ携帯電話で呼び出されても仕方のない仕事に従事していたこともあって、劇場へ行った記憶そのものがない。そして、その後も観ることなく、なんとなく今日まで来てしまったのには、もう一つワケがある。

 この映画が初めて公開された2002年、ユダヤ人国家イスラエルは暫定国境を接するパレスチナのヨルダン川西岸地区に広大な分離壁を作り始めている。サイクス=ピコ協定に始まる英・仏のアラブ分割統治やシオニズム運動に端を発する中東地域でのイスラエル建国以降の泥沼のような戦乱は、パレスチナの地から膨大な難民を生み出した。一方で、“平和”を国是とし同時にアラブの石油資源に頼っていた当時の日本政府の中立的政策もあって、多くの日本人ジャーナリストやボランティアなどがこの地に足を踏み入れ起こっている状況を伝えてくれた。高い“壁”の建設もその一つだ。自爆テロを防ぐという表向きの理由はあったにせよ、イスラエルは暫定自治区に閉じ込めた人々を監視し自由な往来を妨げるためにパレスチナ領内の“入植地”にまで踏み込んで“壁”を作った。

 ところで、「戦場のピアニスト」は良くできた映画だ。ポーランドのラジオ放送で流すショパンのピアノ曲、英仏の参戦に期待する家族たち。しかし、所得制限に始まる進駐ドイツ軍のユダヤ人政策を新聞で読み、いつしかゲットーへの強制移住が現実のものとなる。少しずつ真綿で首を絞められるような管理・抑圧に始まり、差別と武力制圧が横行し、しまいには拘束と収容・大量虐殺へと繋がる様子が丁寧に描かれている。そして、それを最も端的に表したシーンが、生活を一変させるゲットーへの強制移住なのだ。具体的には周りに作られた“壁”である。道路で分断された地域の往復は限られた時間だけドイツによって許される。ひたすら、それを待つ人々。暇なら踊れと命令するドイツ兵。

 ホロコーストを連想させる“ナチ”的なイメージが今も国際問題にすぐさま発展することは、最近あったアイドルグループのコスチューム騒動一つとってみても良くわかる。それならば、なぜワルシャワのゲットーを思い起こさせるような“壁”を、彼らは作るのだろうか。ホロコーストそのもの、あるいはそれを背景として取り上げた劇映画は多い。少し考えただけでも「ソフィーの選択」、「シンドラーのリスト」、「ライフ・イズ・ビューティフル」、「愛を読む人」、「アンナ・ハーレント」。最近公開された「手紙は憶えている」もその一つだ。あまりにも巨大な犯罪行為は繰り返し記憶されねばならない。しかし、パレスチナで行われたことも同様に取り上げられなくてはおかしくないか。ホロコーストは“壁”から始まったのではなかったか。その問題に応えることなしには、今世界中を覆っている憎しみの連鎖のような状況は決して好転しないだろう。

 全くの偶然かも知れないが、こうしたタイミングでリバイバルされた「戦場のピアニスト」を観に行ったら、あのトランプ氏にも一度、虚心坦懐にご覧いただけると良いのになどと考えた。メキシコ国境に“壁”は作らないで欲しい。

落ちゆく報道メディア2016年11月13日 22:40

 もともとテレビはあまり見ない方だと何度も書いておきながら恐縮だが、唯一地震が起きた時、余程大きな揺れでなければ、発生場所やらの情報を確認しようとテレビのスイッチを入れる癖がある。そのため、以前は見終わってから主電源を切る前に、必ずある特定のチャンネルへ戻しておくという習慣があった。

 しかし、このチャンネルのニュース報道に信頼を疑わせる事態が長く続いたため、ずいぶん前から隣のチャンネルを選ぶようにして電源を切るようになった。

 報道というものの信頼性を、何を伝えるかではなく、何を伝えないのかを基準に考えるようになった時、かのチャンネルのニュースは“信”を置くに価しないという判断に進んだ。また、匿名による意見を視聴者の声として“選択”採用していることにも真意を疑った。それ以上に、経済政策、教育、福祉など社会基盤の整備に関してことごとく後退している現政権へのチェック機能を果たさないことに幻滅を通り越して怒りを感じることもある。

 まことに悲しいことではあるが…それが現実だ。

 ちなみに、公益財団法人「新聞通信調査会」の全国世論調査によれば、くだんの放送局の情報信頼度は各メディアの中で最高位(69.8%)だそうだ。もちろん、それは二つのチャンネルを合わせた結果でもあるが、長く続けている調査報道のドキュメンタリー枠や福祉・教育関係の地道な取り組みによる信頼を、デイリーニュースが大きく損ね、報道機関としての存在理由を失うかもしれないという自覚が果たしてあるのだろうか。

 EU離脱に伴い、BBC1の放送終了時に「God Save the Queen」を流すべきだする保守党議員から出た下院での動議に対し、BBC Newsnightはセックスピストルズによる「God Save the Queen」を放映して応えたという。「ファクトチェック」はもちろんのこと、このような姿勢が本来のジャーナリズムだ。

 まもなく、かの放送局のトップの任期が終わる。「政府が右と言うものを、左と言うわけにはいかない」と発言した人だ。果たして次はどうなるのだろうか。