朝鮮半島につながる神社2016年06月29日 19:04


 久しぶりに四谷三丁目へ出かける。韓国文化院が主催する「道端の人文学 - 日本の中の韓国を訪ねて」と題した講演会とフィールドワークに参加した。二つがそれぞれ別の日ということで、まず講演を聴いたうえで現地を訪ねるという趣向だ。今回は埼玉県日高市にある高麗(こま)神社が舞台。講演は高麗浪漫学会会長の高橋一夫氏。メモを元に簡単に紹介する(かなり私見を補筆 ^^; )。

 8世紀の初め関東地方に散らばって住んでいた高句麗からの遺民が1カ所に集められ、その名前に基づいて高麗郡という地方組織が建てられた。律令制度が整い始めた時期、朝鮮半島三国から渡来した使節や多くの遺民は、日本各地で社会インフラの整備を担うことになるのだが、高麗建郡はその政策モデルともいえる。その中心となったのが、滅亡する前の高句麗から使節として渡り祖国を失った若光(じゃっこう)という王族。現在の高麗神社神主である高麗文康氏はその60代目にあたる子孫だそうだ。

 日高市やその南に隣接する飯能市に縄文時代の遺跡は数多くあるが古墳時代のそれは皆無だ。それが、時を超えた奈良時代の遺跡は出現する。「続日本紀」に書かれた関東7カ国から武蔵への移住による建郡の範囲がそれによって推察できる。無人に近い地域へ郡衙(ぐんが:政務所)を設置し、建郡モデル、あるいは東国開発の拠点として国家が支援したと思われる。その証例として“瓦”の文様がある。国家鎮護であった仏教の寺に使われる独特の文様を持った“瓦”は権威の象徴として格式の高い寺院の造営に使われた。この瓦を作るために粘土を押し込む木型である“笵”を、少しずつ削って使い続けた跡が、大和・川原寺〜下野薬師寺〜常陸新治寺(廃寺)〜高麗女影寺(廃寺)の瓦を結ぶ文様の共通性に表れているそうだ。そして、北武蔵周辺の寺(廃寺)には文様を簡略化した瓦が広がっている。つまり、高麗郡は国家が関与して作り上げた地方統治機構の一つだったと考えられる。1群に3つの官寺が存在する(しかも短期間に造営された)例は武蔵国には他にないそうだ。今なら差し詰め“社会経済特区”とも呼べるのだろうか。なお建郡の目的として、日本国内に滅亡した朝鮮半島三国を置く“小中華思想”があったのかも知れないという説も紹介していた。

 渡来人による技術伝搬は、弥生時代に稲作技術全般、古墳時代に窯業や金メッキなどの先端技術と乗馬、奈良時代以降に大型建築や地域開発などの社会基盤整備と進んだ。「白村江の戦い」の一時期を除けば非常に長期間に渡る安定した交流が行われてきた結果、日本国内には数多くの古代朝鮮文化の跡が残っている。しかし、高麗神社に関わる人々はこれから先の新しい時代に向かってもそうした文化の継承を目指している。今年建郡1300年ということで様々な催しも行われるが、走る馬の上から短弓で的を射たり独特な衣装によるパレードを行うなど高句麗古墳の壁画に見られる民族の風俗に倣った行事は、以前から継続しているものの一つに過ぎない。永い歳月を超えた新しい建郡の“かたち”をさらに模索しているように見えた。なお、講演の最後に会場からの質問に答える形で神社と寺の関係について補足があった。高麗郡の中心に残ったのは高麗神社と若光廟がある聖天院勝楽寺で建郡当時の官寺はいずれも廃寺となっている。国家の支援を失った官寺に対して氏子が支えた神社は残ったということだ。

 木を建てて祭りが終われば取り壊したという古代神道(堂信仰)の場が、神器と共に“社”となっていった経緯は様々だろうが、近代においてそれは急速に統合され現代に続いている。高麗神社も例外ではない。2006年に神社本庁の別表神社に列している。幸い境内に改憲署名の用紙は見当たらなかったが…。

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