つぎはぎのNEWS ― 2020年08月01日 12:38

NHKのニュースは継ぎ接ぎのようなもの。つまり、NEWSではなくSEWNである。どうでも良いことを伝え、大事な事を切り捨てる。モノゴトを考えるきっかけにもならないので、留学生には日本語の悪例としか示せないのが、この国で一番見られているテレビニュースであるという悲しい現実。

コロナ禍中のブックガイド ― 2020年08月03日 12:39

『カムイ伝講義』で有名な江戸研究者田中優子氏が「総長から皆さんへ」という学生・教職員向けの“メッセージ”を法政大学ホームページに載せている。「あなたの言葉をみつける旅に出てください」と題した第1信では「今こそ、読もうと思っていた本を読む」ことを薦めている。そのせいか、最新の第15信までに様々な本が紹介されている。その中から適当にピックアップすると、石牟礼道子『苦界浄土』、パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』、小松理虔『新復興論』、島田雅彦『カタストロフ・マニア』・『徒然王子』、『芭蕉七部集』、石川淳『普賢』、ナシム・リコラス・タレブ『反脆弱性―不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』、松岡正剛『フラジャイル弱さからの出発』、池上英子・田中優子『江戸とアバター』、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』、渡辺京二『逝きし世の面影』、飯嶋和一『出星前夜』・『星夜航行』、吉田修一『横道世之介』・『続・横道世之介』、内田百閒『まあだかい』等…。
 8月から東京新聞で小説の連載を開始した島田雅彦が、自身のツイートで、この“メッセージ”が卓越したブックガイドになっていると紹介していました。確かに面白いラインナップです。

混乱させるだけのメディア ― 2020年08月06日 12:41

「会見には大阪はびきの医療センターの松山晃文次世代創薬創生センター長が同席。ホテル療養中の41人でポビドンヨードという成分を含むうがい薬を使った人の唾液をPCR検査すると、使わない人より陰性が多い傾向があったと発表した。ただ松山氏は、重症化や他人にうつすのを防ぐ効果は実証しておらず、既に体内に入ったウイルスにも効果は及ばないと説明」
 うがい薬を使ったら口腔内のウィルスが減ることで、PCR検査を受けた“ホテル療養中”つまり感染軽症者に陰性判定が多く出たということだが、上記のような例文を日本語学習に使う場合、それがなぜ感染拡大防止に繋がると多くの人が考えてしまうのかについては、現代日本人の精神的特徴を十分考慮に入れながら読解する必要があると留学生に指摘することになるだろう。最近、こういう事例を集めるのに事欠かなくなっている。

本が読めない人を育てる国 ― 2020年08月11日 12:45

数年前から日本近代文学の研究者紅野謙介氏が繰り返し新書などで指摘してきた「国語教育」の問題が、ようやく顕在化してきたようです。「論理国語」という課目で“実用文”ばかり読まされる中高生たちの悲惨な状況が想像できます。以前その事例として取り上げられた「契約書」の類は、外国人のための日本語教育で読解の例文に多数出てきます。つまり日本で生活する上での最低限の自立を促すための文章です。
 ここ数年、伝統芸能や“語り”について自分なりの経験を深めている一番の理由は、何より日本語が達者な留学生や元留学生と、日本という「辺境」に生まれた豊かな文化を一緒に学びたいからで、その依って立つ社会が崩れていくのは耐えられない思いです。
 この記事は連載の5回目ですが、最初から読めます。

大念仏の時期まで延びた「隅田川」 ― 2020年08月12日 12:47

山手線内に入るのは、ほぼ半年ぶりに近い。前回は「東京自由大学」の講座で場所は日本橋だった。それに比べれば都心から随分と外れた閑静な住宅街の一角で、人通りも少ない。最寄りの駅は千駄ヶ谷だが、横浜から行くには副都心線の北参道駅が便利である。訪ねた先は国立能楽堂。そこで行われた観世流梅若研能会の舞台を観てきた。当初3月に予定していた公演は一度6月に延期されたものの、再度の延期で8月のお盆の時期にまで繰り延べされたのだ。
 「研能会」という名前に相応しく、所属する能楽師の“研鑽”の舞台にも見える。地謡はそのままに短い仕舞が3本続く。「盛久」・「小塩」・「国栖」という演目は、武士・貴族・権現とそれぞれシテに特徴があるものを選んだようだ。狂言の「萩大名」は三宅右近一家が息の合った芝居を見せてくれる。物覚えの悪い大名の軽妙さが素晴らしい。コピペを読み損なうどこぞの首相の姿が目に浮かぶ。
 本命は最後の能「隅田川」。以前、体験教室でお世話になったシテ方の加藤眞悟先生が狂女の役を演じられる。天籟能を含め安田登さんとの共演も多く、私の少ない能楽鑑賞体験の中で一番多く観ているシテ方演者である。加藤先生の声は少し高い。しかし、三味線の“音締め”とも言うべき謡いの巧みさがそれを感じさせない。それでも、やはり女性を演じるのに向いているのではないかと考えるのは素人の勘違いだろうか。もちろん、それは所作の美しさも含めての話ではあるのだが…。
 −− 人買いにさらわれた我が子を探しあぐね、遠く隅田川の“渡し”にまで辿り着いた狂女が、業平に擬して船頭に乗船をせがむ。そういえば、昨年路傍に葬られた子供を弔う大念仏が始まるところ。船を漕ぎつつ船頭が語る謂われは、正しく息子の死を示し、狂女は聞きながら涙にくれる。事実を知った船頭は子が眠る塚へと狂女を導き、大念仏が響く中、供養の為の小さな鉦鼓を手渡す。悲しみの中で鳴らす鉦の音は息子“梅若丸”を蘇らせるが、狂女がその姿を抱きしめられぬまま、彼の姿は消えてしまった --
 今回観ていて記憶に残ったことがいくつかある。まず、地の謡いに川波を感じた。次に子方の声が演目そのものが持つ“悲しみ”を倍加している。笠を取ることで初めて面が現れる瞬間の昂揚が強く感じられる。シテ方の座位における所作と演技。塚の柳は常緑の“黒髪”であることなど…。
 演目の季節は旧暦3月15日、川面には十五夜の月が照っていたに違いない。当初の公演日は日付の近い新暦3月19日だった。それがコロナ禍で8月にずれたため“大念仏”が盆の法要に重なって見えた。死者を念うのは、やはりこの季節ということなのだろうか。