ARが開く歌枕2020年07月01日 11:56

このところ様々なネット上のコンテンツを眺めては無聊を慰めているが、先週の土曜日、久しぶりに頭を使う、いや脳を積極的に使うためのオンライン講座を受講した。「情報通信学会」が主催する第1回モバイルコンピューティング研究会という催しである。内容は東京駒込にある六義園を歩きながら脳内を働かせるという少し変わった話だった。以下、意訳を含めた簡単なメモ。
 江戸幕府五代将軍綱吉から拝領した土地に側用人の柳澤吉保が造り上げた「六義園(りくぎえん)」は大名庭園としても有名だが、その名に由来する様々な歌枕を模した景色が今も残っている。和歌を中心にした古典の教養次第では、そこがあたかもパラレルワールドのような世界に変わる。だから、講座の副題には「武士のAR訓練センター「六義園」を歩く」とある。
 庭園の入口にあたる「遊芸門」はこの先にある空間で回遊することを意識する場所であり、『論語』にある「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」から名付けられた。すべて道や歩行に関する漢字と関係がある。門をくぐって中に入れば、ところどころにある石柱に彫られた数文字が和歌を思い起こさせる仕掛けになっている。もちろん教養あってこそだが…。
 ちなみに、一番最初にある「出汐湊」では、慈円作「和歌の浦に月の出汐のさすままによるなくたづのこゑぞさびしき」を思い起こし、歌枕で有名な和歌の浦から月夜の海に漕ぎ出す風景と、寂しい鶴の鳴き声が聞こえてくるような段取りが脳内ARの一例ともなる。その後も、石柱に彫られた文字を拾いながら楽しむ趣向が続くのだが、初見ではとても付いていけない。
 さて、「六義園」逍遙の後は、日本文化と脳内ARの話。数多くの長編叙事詩が示すように世界にも脳内ARはある。ただ、日本は無文字社会が長かったので、それが顕著に残った。だから、“絵”という漢字に訓読みがないのは脳内で組み立てる立体表象には慣れていても二次元の平面表象には馴染まなかったからではないかという。また、算盤の計算を行う時に障子の桟が見えればそこに珠を置いたり、枯山水の庭や能舞台を脳内ARのためのスクリーンとしたようだ。もしかしたらそれは、観る人が勝手にプロジェクションマッピングをするようなものかもしれない。
 最後は俯瞰とウォークスルーの対比。ドラクエのようなウォークスルーが出てくる本格的なロールプレイングゲームは日本から生まれた。たとえば、漢字の“国”は壁にかこまれているが、“くに”はただ平らな大地のイメージ。西洋の宮殿の庭は俯瞰によるデザインだが、日本の庭は“絵巻物”風に歩きながら様々に変化するウォークスルー的なもの。臨機応変を楽しむ文化は今も続いている。

奪われた野に春を想う2020年07月04日 11:59

「コロナ禍」の中、少し前から白水社のWebマガジンを時々読んでいる。「忘却の野に春を想う」と題した往復書簡だが、この題名にピンと来る人もいるだろう。植民地時代を生きた朝鮮半島の詩人李相和(イ・サンファ)が書いた詩『奪われた野にも春は来るか』から採られたものである。その第一信に著者の姜信子さんはこう書いた。「風土を奪われ風土を忘れ都市に生きる「コメ難民」の閉ざされた近代が、風土に生きながら風土を奪われゆく日本の「内なる植民地」の民の近代とひとつながりの大きな流れとなる、今までとはちがう近代の風景」。
 それは、日本国内の米騒動を植民地朝鮮での産米増殖により解決させようとした結果、土地を手放さざるを得ずに流民化した“コメ難民”が大量に内地へ渡ってきた歴史と、植民地を失い新たなコメの供給地を担わされた戦後の東北がつながって見えるということでもある。以後に続く往信のやりとりの中で、“奪われた野”は様々な展開をみせる。東北から沖縄・済州島を巡り谷中・水俣へと続く。その旅の一部は一昨年から続く東京西荻窪の忘日舎で開かれる“語り”の会「旅するカタリ」で私も何度か耳にした。それは、今この文章を書いている同じ時間帯に現在進行形で行われていて、私のごく小さな個人的事情で参加をキャンセルしてしまったが、この往復書簡第十九信の最後、石牟礼道子『苦界浄土』より「草の親」も実演されたはずだ。人災を含む「コロナ禍」で奪われてしまった東京の風景の中で…。
 『奪われた野にも春は来るか』。同じ題名で開かれた7年前の写真展を取材したドキュメンタリー番組で写真家鄭周河が次のように述べている。「朝鮮語には「春」という音に「見る」という意味があるのです。「直視する、しっかり見る」そういう意味です。「しっかり見る」ことは、「考える」ということを意味するのではないでしょうか。(中略)春がないからこそ、私たちは春を待つのではないか。失われた春は、与えられるのではなく取り返すのです」
 変わらない風景から失われたものを探す。日常の中にある不安の兆しに目を向けることから学ぶ。そして、お互いが共有する経験と知識を持つことで目に見えないものが見えるようになるという、福島を何度も訪ねた韓国人写真家の言葉からも、“カタリ”の声が聞こえてくる。

自らの中に旅するバウル2020年07月09日 12:02

“密”がとても恋しくなるような本を読み終わって困っている。2週間ほど前に発行されたばかりの『バウルを探して〈完全版〉』は、過日観た映画「タゴール・ソングス」にも出てくるバングラデシュの「バウル」を訪ねた旅の記録である。著者の川内有緒さんは国連職員だった5年半を含め世界各地の様々な場所を訪ね歩いた経験を持つ人だが、この旅はその中でも際だって特別なものだったことが“あとがきにかえて”書いたある人への“手紙”に記されている。それは奇跡とか僥倖という使い古された言葉では表せない。ある意味、この人にとって必然的なものだったのだろう。きっと、バウルに“呼ばれた”からに違いない。その一連のできごとが綴られている。
 この本は2013年に一度出版されている。同じ出版社から文庫本にもなって出たものが、こうして〈完全版〉という形で再刊されるには理由がある。一つは初刊の装丁に、旅に同行した中川彰さんの写真が章扉でしか使われていなかったからだ。その後の経緯については“手紙”でも述べられているが、今こうして目の前にある新刊を見れば、ここにも何かに“呼ばれた”ような“必然”を強く感じる。だから、是非手に取ってみて欲しい本なのだ。
 〈完全版〉の内容にふさわしい装丁には、全体の3分の1を占めるカラー写真の濃密で猥雑な世界が際立っている。私はまずそれを予備知識なしに一頁ずつめくりながら観ていった。180度開く少し変わった製本のおかげで、過密な街の様子が匂い立ってくる。目新しい風景に混じって、何が写真家の関心を呼んだのかよくわからないものもある。一つにまとめられない豊穣な世界は読者が感じたものをそのまま本文へとつなぐ“呼び水”のように最後は河の写真で終わる。
 続く本文の内容を紹介するのは難しいが、あえて一言でいえば、“探して”という言葉に集約されるような不思議な旅だったということだ。最終章にこんな記述がある。旅行中、通訳兼ガイドで同道したアラムさんから著者への「お願い」があった。
 「ワタシと友達になってくれますか」
 軍事政権に反対する運動に身を投じ、投獄されそうになって国外へ逃れたアラムさんは、タイを経由して日本に入国し、深夜の工事現場で働いたという。そこで知り合った男性のお母さんから世話になり、9年後に戻った祖国でお金を貯め、「日本のお母さん」であるシズエさんの名を冠した学校を故郷に建てたという。何かを“探して”いると、いろんな出会いがあるものだ。
 帯にも記されている若松英輔氏の解説だけはまだ読んでいない。稀代の批評家の文章を読んだ後では、自分の感想が揺らいでしまう。トンチンカンでも自分の中に旅するのが“バウル”らしい。

頭の中のカオスが出た言葉2020年07月16日 12:05

もう1年以上前に聴いた“語り”が蘇ってくるようだった。昨年6月、“つながり”をテーマにして開かれた小さなゼミナールで聴いた「修羅」のような言葉たちを、今度は活字で追いながら、著者が激しく生きた生きざるを得なかった時代に思いを馳せた。
 童話作家・詩人として名高い宮沢賢治はその短い生涯でたくさんの手紙を書いている。その一部に画を添えて書簡集に仕立てた変わった本がある。『あたまの底のさびしい歌』という書名は、取り上げられた一通の手紙の最後の言葉から採られている。
 “しっかりやりましょう”という自らを鼓舞するような言葉を幾度も幾度も書き連ね、そのカオスを親友(保阪嘉内)に叩き付けるような過剰の人がそこにはいる。病気がちだが成績優秀だった子どもの頃に、様々な自然や宗教・教育の体験を経て育まれた独自の感性は、彼が生きる時代に普通に暮らしていくことを許さなかったのだろう。その情理は、一人の人間の中に“教える”人と“教えられる”人の混沌を招き寄せたのではないだろうか。書き連ねた“他者”への言葉に自らが翻弄されるような人だったのかもしれない。命を削るような教え子への手紙に「また書きます」と記されているのが痛々しい。本全体の7割を占める、読んでいて苦しくなるような手紙を送られた親友は、いったいどんな返事を書いたことだろうか。

スペイン風邪に見る“密”と“軍”2020年07月20日 12:08

BS-TBSで放送されている「関口宏のもう一度近現代史」という番組がある。日本の近現代史をテーマに記録写真やパネルを使って関口宏が説明し、作家委の保阪正康氏がそれに解説を加えている。一見、ソフトな放送大学のような番組である。先日の放送回は「スペイン風邪」がテーマだった。ちょうど、コロナ禍で見直されている歴史的事件だが、多くの知見を得たのでメモにして残す。
 そもそも「スペイン風邪」という名称だが、これは当時世界を席巻したこの疫病被害の実態が第1次大戦中の“中立国”スペインによって公式に発表されたことからくる。もちろん、それだけ災禍が大きかったのはいうまでもないが、他の国でも同様に感染は拡がっていた。では、なぜスペインが注目されたのか。話は簡単で、多くの大戦参加国は感染被害を“軍事機密”として一切出さなかったからである。
 『西部戦線異状なし』に描かれたように、第一次世界大戦で兵営はおろか塹壕の“密”状態は疫病の感染を広げ、この果てしない消耗戦を終わらせた。病死を含む戦死者1700万人。だが、“スペイン風邪”による死者は最終的に世界全体で4000万~1億人に上ったという。
 その感染経路だが、記録に残っている一番最初の確認は、アメリカのカンザス州にある陸軍基地である。数千名が感染し死者48人に上ったが、大半は軽症で「三日熱」とも呼ばれた。各州の兵営から全土に拡大し、参戦したヨーロッパの戦線にも持ち込まれた。一方で太平洋を往来した船舶を経由してアジア各地にも拡がり、3週間でほぼ世界全体へと拡がった(感染起源についてはフランス駐屯のイギリス軍からという説もある)。
 日本では植民地統治下の台湾で巡業を行った力士3名が死亡したのをきっかけに、同年5月の大相撲夏場所や、同時期の横須賀軍港での250名集団感染があり、それぞれ“力士病”、“軍隊病”などと呼ばれる集団生活ならではのクラスター感染となった。その後、第1波は全国に拡がり2000万人以上が感染。翌年の第2波は240万人だったが致死率は4倍。最終的に39万人(一説には呼吸器死因を含めて45万人)が亡くなった。
 当時もマスクの高騰や医療崩壊が起き、栄養価の高い卵や薬などが特需となっている。罹患した女優松井須磨子を看病した島村抱月は感染死。須磨子が後追い自殺。首相の原敬も感染症研究所のパーティーに参加して感染した(この時点では病原体が不明)。
 以下私見。ウィルスによる感染症は、“密”にあたる集団生活を行う軍隊の兵営や、戦線の塹壕で爆発的に拡がった。海軍なら空母や潜水艦などがそれにあたる。長期に運用される“軍”から感染が拡がった歴史は、今沖縄で大きな問題となっている米軍兵士の感染と外出による市中感染への懸念を裏付けるもので、各地への波及が心配だ。情報開示に後ろ向きで会議記録も残さず、行き当たりばったりの対応に終始する現政府の対応は、明治政府の内務省衛生局で日清戦争の帰還兵検疫を行った後藤新平の手腕に遠く及ばない。この災禍はまだまだ続くだろう。