脳の誤作動は誰しにも…2020年06月18日 11:51

私は幼い頃、注意散漫や切り替えの悪さで、よく叱られた記憶がある。現代ならさしずめ軽いADHDと診断されるかも知れないが、その頃の社会は今よりずっとおおらかだったのだろう。おかげで、“のんべんだらり”と過ごすことに罪悪感を感じず、天邪鬼(あまのじゃく)な性格を育みながら今に至る。そのせいか“脳”の働きが他人(ひと)と違うことに違和感がない。まもなく「高齢者」に組み込まれるが、五人に一人は軽度な認知障害があるなどと言われると、程度の差はあれ誰しもが何らかの障害傾向を持っているのが当たり前だと嘯(うそぶ)く。
 一昨年ぐらい前からだろうか。能楽師安田登さんのツイッターで知って時々読んでいたネット上の記事がある。「レビ-小体病の当事者研究」と副題が付いた『誤作動する脳』という一風変わった表題のコラムである。「ケアを開く」という医学書シリーズで毎日出版文化賞を受けた医学書院のホームページにそれはある。
 書いたのは樋口直美さん。当初誤って鬱(うつ)病と診断された6年間での治療経験を含め、「レビ-小体型認知症」と診断された後の数々の経験を中心に、当事者である自らの視点で記録したものである。そのコラムが、表題のままに「ケアを開く」シリーズの一冊として加筆・単行本化された。
 樋口さんの体験記を読んでいると、認知症では多様な感覚野において「認知」の働きが“誤作動”することがわかる。特に、知覚“できない”ものよりも、“幻視”や“幻聴”など実際にはないものが見えたり聞こえたりすることの不思議さに強く関心を覚えた。少し妄想癖があるせいか、私は見えないものや聞こえないもの、この世とあの世の“あはひ”にあるものに惹かれる傾向がある。だから、たとえば身体的特徴から遺伝的形質、性格、精神状態、体調など個々人を取り巻く様々な条件によって引き起こされる感覚野の認知の違いが、はたしてどこからどこまで“症状”と言えるものなのだろうかと考える。もちろん、それが社会生活を困難にするようなものならばとても困るに違いない。ただ、それを“病的”というような概念で捉えるのではなくて、一つの身体障害の延長線上に置くことはできないのか。実際、誰の脳でも誤作動は起きる。その頻度と重度こそが問題ではあるのだが…。
 だから、“名前”を付けては区別し差別や侮蔑の対象にして喜んだり、次代を考えず取り巻きだけを潤す為政者を選んだりする人間の性(さが)も、認知の働きが一方に偏ったまま自由を失った障害と言えるかもしれない。コロナ禍にそんなことを考えさせられた。

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