伝言板が伝えたもの ― 2020年05月24日 11:28
1970年代前半の話だが、私が卒業した県立工業高校の電子科にはまだコンピュータが無かった。マイコンキット「TK-80」が販売されたのは1976年、「ASCII:アスキー」の創刊が1977年のことである。就職してからも自分のパソコンを買うまでにはずいぶんとかかった。初めて購入したのは1988年、3.5インチFDD内蔵の小さなPC-9801だ。
その後、パソコン通信でのコミュニケーションのためにブラインドタッチの練習を積んでいた頃、気晴らしに良く読んだコラムがあった。今も第一線で活躍している小田嶋隆氏が書いた『我が心はICにあらず』である。題名は、全共闘世代が愛読したという高橋和巳の小説『我が心は石にあらず』のもじりだが、内容はまるで関係がない。コンピュータネタを中心にアイロニカルな視点で書かれた文章だった。当時、ICと言えばIntegrated Circuit。つまり集積回路のことである。今時のInformation and Communicationではない。“石”を“IC”と読み替えた表現は、鉱石ラジオの経験とも馴染み深かった。氏には『路傍のIC』という著作もある。内部に“石”があるというイメージは結石など身体の不調に関するものもあるが、コンピュータの心臓部であるCPUを“秘石”に模したテクノロジー信仰のようにも見える。それを我が心は“IC”ではないと否定したメッセージがとても新鮮だった。
その小田嶋氏が日経ビジネスで連載しているコラム「ア・ピース・オブ・警句」の中で、JR東神奈川駅に伝言板が復活した記事を取り上げていた。「有意義な話題にキャッチアップしようとする書き手の側のリキみ」を打ち消すように、担当するラジオ番組のディレクターが持ち込んだ小ネタに反応したコラムだったが、その中にある次の一文がとても気に掛かった。
「私は、自分たちが、日常を充実させるためにコミュニケーションをとっていた時代から、コミュニケーションを充実させるために日常を運営している時代にたどりついてしまったのだというふうに考えている」
コラムはこの後、伝言板とツイッターという、不特定多数を相手に発せられる匿名発信の一時情報ツールが良く似ているにもかかわらず、その扱われ方がすっかり変わったことを述べている。すなわち、私たちの対人行動が、無頓着な甘ったれから、ひがみっぽくて剣呑なものへと大きく変容した。伝言板の適当にボカした書き方にはウケ狙いがあり、情報に要約される以前にコミュニケーションの体温が伝わった。だから、随時に連絡できなかった人間は相互に“孤立”していて、会えば「ベタベタした」。それにひきかえ昨今の若い人たちは、極度に慎重な姿勢と非常に行き届いたコミュニケーション作法を身に着けている。いや、身に着けざるを得なくなっている。今の50歳以上の男たち(?)が、自己責任に基づいた現代のメディアリテラシーに長い時間をかけてようやく慣れてきたのとは対照的に…。
「ただ、それでわれわれが幸せになったのかどうかは、誰にもわからない。私個人としては、伝言板に書く文言を工夫するために20分ほど駅頭に立ち尽くしていた40年前のあの場所に戻れるのであれば、いくら支払ってもかまわないと思っている」。そう結んだ。
“待つ”ことに寛容な時代は戻ってくるのだろうか。
その後、パソコン通信でのコミュニケーションのためにブラインドタッチの練習を積んでいた頃、気晴らしに良く読んだコラムがあった。今も第一線で活躍している小田嶋隆氏が書いた『我が心はICにあらず』である。題名は、全共闘世代が愛読したという高橋和巳の小説『我が心は石にあらず』のもじりだが、内容はまるで関係がない。コンピュータネタを中心にアイロニカルな視点で書かれた文章だった。当時、ICと言えばIntegrated Circuit。つまり集積回路のことである。今時のInformation and Communicationではない。“石”を“IC”と読み替えた表現は、鉱石ラジオの経験とも馴染み深かった。氏には『路傍のIC』という著作もある。内部に“石”があるというイメージは結石など身体の不調に関するものもあるが、コンピュータの心臓部であるCPUを“秘石”に模したテクノロジー信仰のようにも見える。それを我が心は“IC”ではないと否定したメッセージがとても新鮮だった。
その小田嶋氏が日経ビジネスで連載しているコラム「ア・ピース・オブ・警句」の中で、JR東神奈川駅に伝言板が復活した記事を取り上げていた。「有意義な話題にキャッチアップしようとする書き手の側のリキみ」を打ち消すように、担当するラジオ番組のディレクターが持ち込んだ小ネタに反応したコラムだったが、その中にある次の一文がとても気に掛かった。
「私は、自分たちが、日常を充実させるためにコミュニケーションをとっていた時代から、コミュニケーションを充実させるために日常を運営している時代にたどりついてしまったのだというふうに考えている」
コラムはこの後、伝言板とツイッターという、不特定多数を相手に発せられる匿名発信の一時情報ツールが良く似ているにもかかわらず、その扱われ方がすっかり変わったことを述べている。すなわち、私たちの対人行動が、無頓着な甘ったれから、ひがみっぽくて剣呑なものへと大きく変容した。伝言板の適当にボカした書き方にはウケ狙いがあり、情報に要約される以前にコミュニケーションの体温が伝わった。だから、随時に連絡できなかった人間は相互に“孤立”していて、会えば「ベタベタした」。それにひきかえ昨今の若い人たちは、極度に慎重な姿勢と非常に行き届いたコミュニケーション作法を身に着けている。いや、身に着けざるを得なくなっている。今の50歳以上の男たち(?)が、自己責任に基づいた現代のメディアリテラシーに長い時間をかけてようやく慣れてきたのとは対照的に…。
「ただ、それでわれわれが幸せになったのかどうかは、誰にもわからない。私個人としては、伝言板に書く文言を工夫するために20分ほど駅頭に立ち尽くしていた40年前のあの場所に戻れるのであれば、いくら支払ってもかまわないと思っている」。そう結んだ。
“待つ”ことに寛容な時代は戻ってくるのだろうか。