“呪い”から遠ざかる態度2020年05月07日 11:04

現在進行形の「コロナ禍」という未曾有の社会経験を通して、これから世の中がどのように変わるのか、いや変わらざるを得ないのかについて、様々な言説が出始めている。中には“GoToキャンペーン”なる世紀の愚策も飛び出したが、先が見えなければ見えないほど、何らかの希望にすがる思いが強くなるのはやむおえないところだ。
 しかし一方で、すでに仮想世界とも思える「首相会見」で当の人物が“8日”を“8月”と読み違えたり、それを字幕で瞬時(?)に“8日”へ修正する“公共放送”があったり、あるいは「誤解された」と言い訳に終始して感染受診の前提を削除する“専門家”たちが、臆することなく「新しい生活様式」とやらを提言することなどへ、次第に“慣れて”しまいそうな危機感を持つのもまた事実だ。
 だから、とりあえずは、今の現実にどう対すべきかを喫緊の問題として考えなければいけないことは間違いないのだが、その反面、この機会にこそ落ち着いて世の中の動きを見直してみることも、もしかしたら必要なのではないかと思うようになった。それは、今までの予想をはるかに超えた愚劣な為政者や脆弱化した社会に加え、このところにわかに登場してきた“自粛警察”とも呼ばれる“公の正義”を振りかざす“自警団”の存在が一つの契機になっている。
 匿名による摘発行為はこの国の暗く汚れた歴史的伝統を思い起こすが、それを暗黙に支持する者の存在を意識しなければ、そうそう表に出るものではない。差別感情を基層にした“ひがむ”心が起こす咎(とが)め立ての行動は、いつも誰かに喝采を送られ称揚されることを望んでいる。少なからぬメディアが営業自粛に応じない店や感染者の行動を追跡する様子をことさらに取り上げるのも、そこに通じる。同様に、ワイドショーでおだてられる権威主義的似非ポピュリストの屁理屈が、自らの言葉で考えない烏合の衆を煽っている。
 こうした行動やそこに連なる言葉は、幼稚な子供の言いがかりに等しいが、一方で、命令や指示に従うことに慣れ親しんできた教育の影響もあるだろう。つまり、彼らの自己正当化は、それこそ“教師”や“上司”にこびへつらい、「目上」の存在に対して一度も抗しない隷従に端を発しているからだ。“正義”を振りかざして人を悪し様にののしる行為が、コロナ禍の世相を一層すさんだものにしているなら、そうした“呪い”から遠ざかることが今最も賢明な態度に違いない。