小さな瞳と豊かな表情2019年12月03日 18:56

日本語ボランティアを始めた頃、良く訪ねたところの一つに横浜市栄区にある「アースプラザ」という学習施設がある。名前から連想されるように国際理解の為の様々な展示やフェアトレードショップ、各種貸出研修室があるほか、外国人住民の多い神奈川県ならではの「国際言語文化アカデミア」という一機関が入っている。そこでは、在留外国人に各種の支援を行うボランティアに向けた講座などが定期的に開かれていて、私も何度か利用した。
 過日、そのアースプラザへ、無料で観覧することができる二つの展示会を観に行った。円形の建物を扇形で区切った企画展示室の、そのまた半分ずつを使って開かれたのは、いずれも、子供を対象にした作品を創り出してきた二人の女性の作品展示会である。一人はいわさきちひろ、もう一人は安田奈津紀。絵画と写真と、それぞれ表現している媒体は違うが、何よりも子供を観るというところから始まっている。そして、その視線の優しさと“確かさ”がとても似ている。
 両方を観た印象としては、もっと大胆に二つを混在して並べてみても良かったのではないかと感じた。お互いの作品の背景にある社会は、時や場所を隔てたものではあるが、子供の表情を見比べてみることで、もしかしたら単独で観る場合とは違った何かが浮かんでくるかもしれない。企画運営の事情だろうが、開催期間の全く同じ展示会なのだから、もう少し意欲的な試みがあっても良かったのではないかと少し残念に思う。
 絵本作家のいわさきちひろは日本人には大変人気がある。この日、別室のホールでは彼女を主人公にした無料のドキュメンタリー映画会が開かれていた。私も当初はその映画を観るつもりだったが、開場前に並んだ行列を目にしたら、映画の上映時間に合わせて閑散となる展示室をじっくり観て回ろうと考え直した。そうして、その作品群に対峙していたら、あることに気が付いた。彼女の描く子供はなぜ小さな瞳だけなのか。もちろん例外はある。『戦火の中の子どもたち』には白目も描かれている。しかし、初期の作品から晩年まで、絵本に登場するほとんどの子供の目は瞳だけしかない。それでも、個性や感情は十分読み取れる。
 一方、安田奈津紀の写真で印象的なものは子供のはじけるような笑顔だった。もちろん、空爆や銃撃などによる悲惨な状況に悄然としている表情も少なくないのだが、つかの間の安穏な時間に見せる笑顔が心を和ませる。その豊かな表情には、まだくすんでいない無邪気な瞳があるが、それは口元を含む顔全体の印象の中で、一つの焦点を結んでいるに過ぎない。つまり、美しくはあるが、極端なことを言えば顔を構成している一部だということだ。
 人間の顔で最も印象が強いと思われている瞳が、実はそれ“だけ”では印象深いものにはならないことを、いわさきちひろは、その類い希な観察眼で見極めていたのではないだろうか。いや、逆にそこに焦点を当てれば当てるほど、人間の顔に本来ある豊かな感情表現を狭めてしまうことを深く知っていたのだろう。あの『戦火の中の子どもたち』に白目があるのは、子供の表情よりも、その視線の先にあるものを我々に感じ取らせるための工夫だと言ったら、とんだ見当違いだろうか。
 能舞台を見上げる見所の客は、役者の身体全体の静謐な動きから、形の変わることない面(おもて)に宿る表情を読み取ろうとする。そこには演じられている世界全体から、人間の心を受け止める感性が求めらている。いわさきちひろが描く小さな黒い瞳は、そうした能における面の役割をわかりやすく示しているものでもある。そんな想像が拡がった。