メタ映画の昂揚 ― 2018年09月27日 13:50

映画『カメラを止めるな!』(通称“カメ止め”)を横浜ムービルで観た。平日の正午過ぎから始まった回は空いていた。やや後方の真ん中の席に座ったが前方数列に人がいない。スクリーンの位置が低く観客席の傾斜が全体にゆるやかな昔ながらの映画館なので、満員であれば前の人の頭が気になったことだろう。公開からもうだいぶ経った時点ではあるが、以降にネタバレにつながる解釈も書くので、これから観ようと考えている人には余計な情報になるかもしれない。ご容赦願う。
映画の題名にもなり、劇中の台詞にも使われた「カメラを止めるな!」をそのまま表した30分を超える長回し部分がある。その部分を独立させたことで、この映画は一種のメタ映画とも呼べる作品になっている。つまり、多層的な構造がある。小説などではよくある手法だが映画ではあまり見かけない。なぜならば映画にはカメラフレームという構図表現の制限があるからだ。だから、キャストとスタッフには、非常に計算され尽くした動線が求められただろうことが良くわかる。それは広角レンズで撮影したメイキングをわざわざエンディングに足して見せるぐらいに念押しされている。長回し部分が入れ子になる構造は、想像力というより、舞台裏を見せることそのものが普通の情報消費に飽きた人々に訴える力があると考えたからだろうか。
それは話の筋にも関わる。ある条件で放映される番組の演出を依頼されることで、(作品中の)監督のみならずその家族が巻き込まれてゆく、いや積極的に関わり始める様子が、観客の関心を引き寄せる効果につながっている。そこには、映画そのものの内容より、観る者とある種の“共犯”関係を作りたいと考える監督の強い意志が感じられた。おそらく、この映画が制作された背景にはワークショップで集まった色濃い人間関係が存在している。それだけに、映画の制作手法に特段の評価が与えられる一方で、“ドラマ”としての魅力はどうかと問われれば、家族のスナップ写真がもたらしたクライマックスに至る道筋に時々垣間見える程度の表現しか印象的な場面は思い浮かばない。
では面白くないのかと云えば、そんなことはない。とてもエネルギッシュで痛快な作品だ。全編疾走感に満ちている。この作品が多くの観客に受け入れられた理由は、今、マス情報がいかに「する感・やる感」に満たされているかへの反証になるだろう。ただ、今後同じ手は使えないから、監督は次作をどうするのかに悩むだろうが、観客と一体化しようとする方向自体は、この時代を強く感じさせるものだった。
ところで、『ブレア ウィッチ プロジェクト』という恐怖映画があることをご存知だろうか。映画を専攻する学生たちが、魔女伝説が残る森をドキュメンタリーの取材対象に選んだことから、ある恐怖に遭遇して行方不明となり、その記録だけが残されたという設定で、“カメ止め”同様低予算で作られ大ヒットした。何ものかに追われているような緊張感を演出したカメラワークが、観客に“映像酔い”を起こすと当時話題になった。その手持ちカメラの映像表現は“カメ止め”とよく似ているが、大きく異なるところはこの恐怖映画がとても“映画的”だということだ。それに対して“カメ止め”は“演劇的”要素が強い。つまり、マスを対象にした映像表現であるにもかかわらず、特定のコミュニケーション集団の中に生まれている高揚感が観客を惹きつけている。それは本来、映画館だけではなくて、もっと日常的な空間の中にも求められていいもので、それが身の回りにないからこそ強く受け入れられているのではないか。そんな気がした。
映画の題名にもなり、劇中の台詞にも使われた「カメラを止めるな!」をそのまま表した30分を超える長回し部分がある。その部分を独立させたことで、この映画は一種のメタ映画とも呼べる作品になっている。つまり、多層的な構造がある。小説などではよくある手法だが映画ではあまり見かけない。なぜならば映画にはカメラフレームという構図表現の制限があるからだ。だから、キャストとスタッフには、非常に計算され尽くした動線が求められただろうことが良くわかる。それは広角レンズで撮影したメイキングをわざわざエンディングに足して見せるぐらいに念押しされている。長回し部分が入れ子になる構造は、想像力というより、舞台裏を見せることそのものが普通の情報消費に飽きた人々に訴える力があると考えたからだろうか。
それは話の筋にも関わる。ある条件で放映される番組の演出を依頼されることで、(作品中の)監督のみならずその家族が巻き込まれてゆく、いや積極的に関わり始める様子が、観客の関心を引き寄せる効果につながっている。そこには、映画そのものの内容より、観る者とある種の“共犯”関係を作りたいと考える監督の強い意志が感じられた。おそらく、この映画が制作された背景にはワークショップで集まった色濃い人間関係が存在している。それだけに、映画の制作手法に特段の評価が与えられる一方で、“ドラマ”としての魅力はどうかと問われれば、家族のスナップ写真がもたらしたクライマックスに至る道筋に時々垣間見える程度の表現しか印象的な場面は思い浮かばない。
では面白くないのかと云えば、そんなことはない。とてもエネルギッシュで痛快な作品だ。全編疾走感に満ちている。この作品が多くの観客に受け入れられた理由は、今、マス情報がいかに「する感・やる感」に満たされているかへの反証になるだろう。ただ、今後同じ手は使えないから、監督は次作をどうするのかに悩むだろうが、観客と一体化しようとする方向自体は、この時代を強く感じさせるものだった。
ところで、『ブレア ウィッチ プロジェクト』という恐怖映画があることをご存知だろうか。映画を専攻する学生たちが、魔女伝説が残る森をドキュメンタリーの取材対象に選んだことから、ある恐怖に遭遇して行方不明となり、その記録だけが残されたという設定で、“カメ止め”同様低予算で作られ大ヒットした。何ものかに追われているような緊張感を演出したカメラワークが、観客に“映像酔い”を起こすと当時話題になった。その手持ちカメラの映像表現は“カメ止め”とよく似ているが、大きく異なるところはこの恐怖映画がとても“映画的”だということだ。それに対して“カメ止め”は“演劇的”要素が強い。つまり、マスを対象にした映像表現であるにもかかわらず、特定のコミュニケーション集団の中に生まれている高揚感が観客を惹きつけている。それは本来、映画館だけではなくて、もっと日常的な空間の中にも求められていいもので、それが身の回りにないからこそ強く受け入れられているのではないか。そんな気がした。
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