外国語を学ぶということ2018年09月23日 13:47

 「留学生と語り合う会」というNPOに入会して3年半になる。その間、9名の留学生の日本語学習を支援してきたが、一番最初にチューターとして関わった留学生は、キャリアサポートも行う日本語科を併設する専門学校に通っていた。本人が在学中の秋の学園祭へ招待された際には、担当講師にも紹介され、ボランティアの立ち位置について考えるきっかとなった。
 それが縁で、担当講師だった先生から、その後年に2,3回、学外の日本語教師・ボランティアも対象に含めて開かれる日本語教育の勉強会の案内をいただいている。今日も午後から、その公開勉強会に参加してきた。今までに読解や音声、漢字語彙など個別のテーマで開かれた研究会的な集まりにも参加してきたが、今回は「外国語を学ぶということ」と題して認知科学としての言語学から見た外国語習得の意味を考える講演会だった。スキルとしての運用能力の向上だけではなく、母語以外の言語、すなわち直感が利かない“ことば”を学ぶ過程で出てくる意識化が、思考を深め創造的な言語運用に結びつく可能性を考えてみるというものだ。
 特に表層的な言語コミュニケーションには顕在化しない、推論と予測の交換についての詳しい説明があった。また、助詞の組合せや“句順”(語順ではない)で文意がかわってしまう曖昧性など、言語そのものが持つ共通の原理・特性についても触れられた。聞いていて日本語の初級教科書にも時に現れる実態に即していない例文の数々が思い出された。
 これらは当然、外国人にとっての日本語教育にも当てはまるが、指導する立場の日本語を母語とする教師(私のようなボランティアを含め)であっても、母語を意識化する中で思考が進化し、創造的な運用に拡がる可能性はあるということだ。さらには、そうした経験が母語や自国の文化を相対化することで、“疑いの目”を持つ科学的な態度にもつながる。
 社会に蔓延し始めている排他的な差別感情が、自分の“ことば”や文化を相対化することができないところからくるものと考えれば、外国語教育の重要性は今まで以上に大きな意味を持つことになるのだろう。

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