夢の通い路 ― 2020年02月10日 11:38

新型肺炎に関わる疑心暗鬼が生じ、普段よりも人々を殺気立たせているのではないかという別の懸念から、このところ都心の人混みを避けている。特に急ぐ用事もないので行く必要がないこともあるのだが、先日久しぶりに東京へ行って来た。東京と云っても都心ではなく調布である。距離的には近いが電車だと2回乗り換えて1時間弱かかる。駅前で降りるとさすがに大きな街で、落ち着かない自分がいることを感じる。
カミさんに教えてもらった「クッキングハウス」(心病む人と共に集うレストラン?)で滋味豊かで美味しい昼食を済ませ、向かった先は中央図書館。「樟まつり」という調布市の文化イベントの一環として開かれる文芸講演会を聴くためだ。講師は安田登さん。演題は「夏目漱石『夢十夜』をよむ」。「こんな夢を見た」で始まる「第三夜」の朗読は今までにも3回ほど聴いているが、今回は「第一,三,四,十」の四夜分を2時間で紹介という趣向。以下、簡単なメモ。
冒頭に「今日は内容の解釈はしません」と振って始まった講演は、『夢十夜』が書かれた背景(江戸と東京の“あはひ”の時代)と、作品の中に現れる能の構造や繰り返される所作などを様々に紹介する場であった。
『夢十夜』が新聞に連載されたのは1908年。少し前にフロイトの『夢判断』が出版されている。夢は古くから「売り買い」されるものであったが、近代化によって個人の無意識の中へと押し込められる。漱石が生きた時代はその混沌とした変化の時代である。
「第一夜」は能『定家』と似る。式子内親王との“知られぬ恋”が象徴される百合の花が話の中に出てくる。墓石から伸びる茎も「定家葛」を連想する。また、繰り返し出てくる“腕組み”は近代化以降の所作であるが、話の結末は能のような女の夢幻。他にも、西洋の図像とは違う日本の“百合”が象徴するものを古今の短歌から探った。
「第三夜」には、繰り返し歩く所作が描かれる。負うた子との会話に出てくる殺人の記憶の話は、日本各地に伝わる“六部殺し”に似る。「六部」とは巡礼僧。その生まれ変わりが自分の子供であるという“因果律”の話。講演では小泉八雲の『日本の面影』に出てくる「持田の百姓」が紹介された。
「第四夜」に出てくる柳の下の老人は黄色い足袋で狂言師のよう。笛を吹くと持っていた四角い箱に放り込んだ手拭いが蛇に変わるという。「今になる、蛇になる、きっとなる、笛が鳴る」や「深くなる、夜になる、真直ぐになる」という語りは謡のリズムに酷似する。そして、語りながら“橋掛かり”ならぬ河の向こうに消える。
「第十夜」も不思議な話。新訳聖書マタイ伝にある「ガダラの豚」の話に似る。悪霊ならぬ女の顔を見たせいで“あはひ”の絶壁に立たされる主人公。能の女性はシテ方が演じる。漱石が習っていた下掛宝生流はワキ方の流派で、死者と出会ってしまう人間の役が多い。古くは女性の顔の美醜は問われること少なく、その所作の美しさが勝っていたという。
当日、講演の間ずっと手話通訳があった。終演後、その表現の素晴らしさを伝えたことを補記しておく。
カミさんに教えてもらった「クッキングハウス」(心病む人と共に集うレストラン?)で滋味豊かで美味しい昼食を済ませ、向かった先は中央図書館。「樟まつり」という調布市の文化イベントの一環として開かれる文芸講演会を聴くためだ。講師は安田登さん。演題は「夏目漱石『夢十夜』をよむ」。「こんな夢を見た」で始まる「第三夜」の朗読は今までにも3回ほど聴いているが、今回は「第一,三,四,十」の四夜分を2時間で紹介という趣向。以下、簡単なメモ。
冒頭に「今日は内容の解釈はしません」と振って始まった講演は、『夢十夜』が書かれた背景(江戸と東京の“あはひ”の時代)と、作品の中に現れる能の構造や繰り返される所作などを様々に紹介する場であった。
『夢十夜』が新聞に連載されたのは1908年。少し前にフロイトの『夢判断』が出版されている。夢は古くから「売り買い」されるものであったが、近代化によって個人の無意識の中へと押し込められる。漱石が生きた時代はその混沌とした変化の時代である。
「第一夜」は能『定家』と似る。式子内親王との“知られぬ恋”が象徴される百合の花が話の中に出てくる。墓石から伸びる茎も「定家葛」を連想する。また、繰り返し出てくる“腕組み”は近代化以降の所作であるが、話の結末は能のような女の夢幻。他にも、西洋の図像とは違う日本の“百合”が象徴するものを古今の短歌から探った。
「第三夜」には、繰り返し歩く所作が描かれる。負うた子との会話に出てくる殺人の記憶の話は、日本各地に伝わる“六部殺し”に似る。「六部」とは巡礼僧。その生まれ変わりが自分の子供であるという“因果律”の話。講演では小泉八雲の『日本の面影』に出てくる「持田の百姓」が紹介された。
「第四夜」に出てくる柳の下の老人は黄色い足袋で狂言師のよう。笛を吹くと持っていた四角い箱に放り込んだ手拭いが蛇に変わるという。「今になる、蛇になる、きっとなる、笛が鳴る」や「深くなる、夜になる、真直ぐになる」という語りは謡のリズムに酷似する。そして、語りながら“橋掛かり”ならぬ河の向こうに消える。
「第十夜」も不思議な話。新訳聖書マタイ伝にある「ガダラの豚」の話に似る。悪霊ならぬ女の顔を見たせいで“あはひ”の絶壁に立たされる主人公。能の女性はシテ方が演じる。漱石が習っていた下掛宝生流はワキ方の流派で、死者と出会ってしまう人間の役が多い。古くは女性の顔の美醜は問われること少なく、その所作の美しさが勝っていたという。
当日、講演の間ずっと手話通訳があった。終演後、その表現の素晴らしさを伝えたことを補記しておく。