共通する基層文化と芸能2020年01月26日 22:53


寒中とはいえ日射しが暖かく感じられた旧暦の元日。千駄ヶ谷にある国立能楽堂へ第8回「天籟能」を観に行った。旧正月の雰囲気は日本ではあまり感じられないが、東アジアを中心に祝うところはまだ多い。今年の9月に開く多田富雄の新作能『望恨歌』の上演に先立って日韓の古代からの芸能の相似性を新年に探るという企画で、講演そして能と農楽という異色の組合せである。能楽堂で韓国の農楽が上演されるのは今回が初めてとのこと。
 笛の槌宅さんの挨拶で始まり、最初は歴史学者の保立道久先生の「日本と韓国の神話と民俗」というお話。能は歴史劇も多いが、“神話能”と括れる一群の演目があり、能「賀茂」と間狂言「御田」はその代表的なもの。雷神の化身である“白羽の矢”や、桶や川など水辺を通した妊娠譚、そして水に命を与える満月の神話ともつながる。「御田」の田楽(能の前身といわれる)にも男女の交わりを感じさせる遣り取りがある。
 韓国は実は火山国であり、雷神や龍など日本神話に近いものが登場する。排泄物に関わる国造りも似ている。月の神話は日本に伝わり男女が群れて踊る“踏歌”に伝わる。唯一残った百済歌謡「井邑詞:チョンウプサ」は『望恨歌』の原典になっているが、謡われている地名“井邑”は農楽の盛んな全羅道高敞(コチャン)の隣町である。旧暦正月15日の月迎えの行事に“若水汲み”があって、井戸に映った月(龍神の卵)を汲むという。それは「かぐや姫」に出てくる踏歌や歌垣にもつながる集団的な舞踏も含まれる。
 さて、能「賀茂」は播磨の室の神職が同じ祭神の下鴨神社を訪れる冒頭を謡うと、前半を省略して“替えの間狂言”「御田」へと移る。ワキ方が控える舞台で、オモアイ演じる賀茂神社の神職が早乙女が踊る神事を紹介し彼女らを呼び寄せる。橋掛かりに登場した早乙女達の“最初”の謡だけは、能というより民間に残る田植歌の節にも似ているように私は感じた。その後、鍬を持つ神職や菅笠(?)を付けた早乙女が、舞台での田植えと水鏡に顔を映す所作が行われ、男女の遣り取りも描かれる。その辺りは実に“狂言”そのものだった。
 「御田」が終わると後シテが次々に登場。白羽の矢で身ごもった秦氏の女である御祖神(みおやがみ)が舞い、そこから生まれた別雷神(わけいかづちのかみ)が踏歌のような強い足拍子で踊る。五穀豊穣の新年を祝う能は、持っていた御幣(ごへい)を別雷神が後ろに放り投げるという、今も神事や風俗に残る所作を行って、揚幕の中に消えて行くところで終わる。寺子屋で仕込んだ知識は本当に役に立つ。
 休憩明けの後半は韓国の農楽。「農者天下之大本」という大きな幟旗を先頭に登場したのは6名の奏者。ソゴ、ケンガリ、チン、プクがそれぞれ1名、チャングが2名という内訳。演じるのは韓国人3名、在日2名、日本人1名の混成チーム。それが見事なアンサンブルを奏でる。道行きから家主(ソンジュ:先主か?)への奉納、パンクッなど多彩な演奏と踊りを披露した。特にソゴとチャングにはソロパートがあり、能とは真逆のダイナミックな上演が行われた。いつもは静かな見所にも「オルシグ」・「チョッタ」の掛け声と手拍子がこだました。その終わりに近い頃、座っていたワキ柱直下の正面席から橋掛かりに老女の姿が見えた。その老女が農楽の響きに魅せられるように少しずつ舞台へと近寄ってくる。同時に、叩いていたソゴを目付柱の近くに置き、色つきの衣装を脱いだ白装束の演者と交錯し、祖国から離れて死んだ夫(ツマ)への鎮魂の舞いを踊りながら、最後は彼らと共に去って行った。これは、前日に日本側の能シテ方と急遽相談して創り出した『望恨歌』につながる演出であったと、最後の解説で槌宅さんが紹介してくれた。
 一番最後に、優れた見識に基づいた芸能者の見事な交流をこの目で見ることができたことに深い感動を覚えた。こうした舞台を観ることができるのは何度もあることではない。その場に居合わせることができたことに感謝するばかりである。

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