「能」という体験2019年05月19日 12:46

“「初めての…」つながり”が一つある。横浜市の広報誌でたまたま見つけたのだが、区内の地区センターで開かれる「能」の講座を受講している。観世流シテ方の加藤眞悟氏が講師を務め、座講4回・鑑賞2回で一通りの概要を知るというものだ。「能」は一昨年から観始めてまだ数えるほどしか観に行ってはいないが、安田登さんの「寺子屋」(広尾東江寺)に参加したり、『能』(新潮新書)を読んだりして、観るべき点のようなものが少しずつ解ってきたというところである。
 その講座の鑑賞回でもある公演を過日国立能楽堂へ観に行った。ここは二度目だが、ロビーに演能のチラシが大量に置いてあって、目に付くままについ取り集めると帰りは結構な荷物になる。今回の公演は講師本人が主催している「明之會(めいのかい)」、今年で21回目となる。受講者用に配られたチケットは中正面だったが、後方の端に近い視野の広い席で、十分に堪能することができた。番組は、復曲能『虎送』の「独吟」(舞台中央に一人端座しての謡)から始まり、二人の重鎮を含む三曲(『忠度』・『西行桜』・『遊行柳』)の仕舞(シテ方の直面での舞と地謡のみ)、そして狂言『昆布売』を挟んで、最後に世阿弥作の大曲『当麻(たえま)』が演じられた。
 独吟や仕舞の演目は、それぞれ事前にあらすじや詞章(謡う文句)が調べられるものは読んで臨んだ。詞章は古語を長く延ばすので聴いただけでは意味が取れないものも多い。ワキ方も間狂言(アイきょうげん)も囃子方もいない舞台はスカスカで、何もない空間が広いだけに観客も作品に没頭しにくい。せめて何を語っているのかを想像することができなければ、名人上手の謡や舞も十分に味わうことはできないだろう。もちろん、所作の美しさや謡の声の響きなど、それ自体にも魅力はあるが、こちらはまだずぶの素人である。能の中の演劇的要素を十分に心得た上で観たいというのが本音だ。
 『虎送』は、曽我兄弟の兄十郎祐成と恋人“虎御前(とらごぜん)”の別れを描いたもの。『忠度(ただのり)』は、朝敵となったため勅撰和歌集に“読み人知らず”で入れられた平忠度の最後を語る。『西行桜』では桜の老木の精が都の春の錦を讃え、『遊行柳』では朽木の柳の精が一遍上人の仏徳を讃える。短い仕舞の中で、梅若万三郎師の張りのある声に、野村四郎師の朽木が倒れる舞の巧みさに驚かされた。『当麻』はあの当麻寺の故事である。熊野権現からの帰途、念仏僧が阿弥陀如来を讃える化尼(けに)と化女(けじょ)に出会う。二人は実は仏の化身。化尼は杖を捨て紫雲に乗って二上山の間に消える。後シテの中将姫は公家の家から出家して蓮の糸で曼荼羅を織ったと云われる女性。浄土教の功徳を説いて舞う。ちなみに、ワキの旅僧は安田登さん、間狂言は奥津健太郎さんという天籟能のメンバーだった。
 仏教説話を巧みに採り入れた芸能としては、極めて芸術性の高い作品の一つと言えるだろうか。観終わった後に信仰につながる感銘が残ったような気がする。“仏教”というよりもっと普遍的な宗教体験に導かれたような心持ちがした。うろ覚えだが、ドキュメンタリー映画『最後の語り部たち』に出てくるケサル大王を祀る寺の近くにも、二上山のような窪みのある山があったと記憶している。そうした自然現象の中に神や仏を観る原初の祈りは、世界の各所に共通しているのかもしれない。

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