野の道の語り2019年05月24日 12:53


“語り”というものに着目しながら様々な芸能を聴いていく中で、あまり“ジャンル”にとらわれない境界にあるものに惹かれる傾向がある。もちろん、能・狂言の“型”や浪曲の“節”など、その芸能の本質と切って切り離せないものに魅力を感じることも数多くあるのは事実だが、伝統化されることで失われたかもしれない残滓(ざんし)にも“語り”を本来の語りたらしめている要素があるのではないか。そんなことが気になるようになった時、「説経祭文」という境界の語り部に出会い、繰り返し聴くようになった。
 説経祭文の多くは何らかの説話から採られた物語を衆生(しゅじょう)や世人(せじん)に語るものだ。しかし、全国を行脚する中で地域に応じた様々な脚色が施され、芸能ジャンルの境界を越えた混交(こんこう)の芸能になっていった。ときに“如何(いかが)わしい”と称されるような多様性そのものが、システムとは無縁の“道々の芸”本来の姿を良く表している。だからこそ、もとが仏教説話であれ浄瑠璃正本であれ、高座ではない平場こそ向いている。そして、語る対象が持つ“言葉のチカラ”を素(す)に近いカタチで表現できる芸能でもある。そのことを、渡部八太夫さん演じる「旅するカタリ」は如実に物語っている。
 この「旅するカタリ」の祭文だが、一昨年馬喰(ばくろ)町での『山椒大夫』から始まり、その後国立(くにたち)のギャラリービブリオで内田百閒(ひゃっけん)『件(くだん)』や尾崎紅葉『鬼桃太郎』の“今様”を経て、近頃では西荻窪の忘日舎で聴くことも多い。昨年は石牟礼道子の『苦界浄土』や姜信子さんの『現代説経集』を素材にした「山伏祭文と文学」という3回シリーズ。そして、今年は「野生会議」という“仕掛け”の一部として忘日舎を語る“場”にした宮沢賢治を読むゼミナールが開かれている。先日、その第1回に参加した。
 語られたのは『マグノリアの木』。賢治30歳頃の作品である。霧深い険しい山道の灌木(かんぼく)をよじ登り、自然と邂逅(かいこう)した後に開けたのは、雪を思わせるコブシとホオノキ、そして二人の童子。極楽を思わせる景色のなか、修行僧の諒安が掛けた「マグノリアの木は寂静(じょうじゃく)印です」という言葉に鏡像のようなあの世の方(かた)が現れる。そして、ひとときの涅槃がここから拡がる平らな世界にまで届く様子を「覚者の善」と言い表した言葉が残った。何かを問い続ける仏教説話のような不思議な物語である。
 実はこの日、参加者には一冊の本を読んでくるよう主催者から話があった。私ぐらいの世代なら知っているかもしれない有名な雑誌「80年代」を牽引した山尾三省が、移住した屋久島での農耕生活の傍ら身近に置いて読み続けた宮澤賢治の世界を、自らに重ねて書き残した『野の道』という本がある。その新版を昨年末に出した編集者アサノタカオ氏がゲストだった。アサノ氏や姜信子さんの道案内もあり、参加者が感想などを少しだけ述べ合ったが、その内容も様々だった。なぜなら、その時間はひとことでは言いあらわせない境界にあったからではないか。そんな気がする。