手触りのコミュニケーション ― 2019年05月02日 12:25

年明けからずっと頭の片隅にあった懸念から一昨日に解放され、久しぶりに熟睡したせいか、先週末ぐらいまで咳で苦しんでいた体調も完全に戻ったようで、昨日は少し汗ばむような陽気の中を45分ぐらい歩いた。行き先は隣の神奈川区にあるベイシックスタディという学習塾。ここは月に1回「タダーズ・コーヒー」という無料喫茶店が開かれる不思議な空間だ。店主は大倉山ドキュメンタリー映画祭の実行委員でもある。その場所で小さな無料映画会が催された。上映したのは『珈琲とエンピツ』という今村彩子監督の作品。3月の映画祭で同監督の『Start Line』が取り上げられたことがきっかけとなり実現した企画だが、同じ日その今村さんが住む名古屋でも無料喫茶店が開かれたと聞く。
映画の主人公は静岡県の湖西市にあるサーフショップのマスター太田さん。監督同様の聾者(ろうしゃ)である。手話を知らない聴者と距離を置いてしまうことに悩んでいた監督が、太田さんとショップのお客さんとのコミュニケーションに衝撃を受けて撮り始めたものだ。持ち前の明るさで20代からサーファーとしても活動していた太田さんも開店当初は集客に悩んだらしい。どのように聴者の客と接するかという問題を解決したのが、好きなハワイの珈琲を無料で飲んでもらうことだった。
店の受付には「耳が不自由です。ご用はメモに書いて下さい」というメッセージボードがエンピツと共にさりげなく置いてあるが、訪問客には何はともあれ珈琲を勧める。紙コップの珈琲が気分をやわらげ、その後の筆談へとスムーズに移れる。それに加え、一見ハワイ人のようにも見える風貌と柔らかなジェスチャーが、初めてきた聴者との間に気の置けないコミュニケーションを形作っている。
一方、使う人ごとに調整が必要なサーフボード製作者としての律儀な一面を見せながら、筆談のエンピツの先がみんな不揃いという対比も面白い。物作りが好きな人らしく空いた時間にエンピツをナイフで削るのだが、そのいい加減さが気の置けないアイテムの一つになっているような気もした。上映後に、ハワイのフレーバー珈琲を飲みながら参加者同士で感想を述べ合ったが、こうした場でシェアする飲み物として、やはり珈琲は最適なものだとあらためて感じることができたことが何よりである。
ここ数日、メディアの喧噪を意識的に避け、地元で小さな集まりを催したり、あるいは参加して過ごした結果、普段と何も変わらないような日常が続いている。もちろん、一歩一歩この国が不信のトリクルダウンでおかしな方向に進みつつあることは承知の上だが…。人と人が心から理解し合えるなどと考えたことは一度もない。だからこそ、様々なコミュニケーションが面白い。ただ、そこには互いに信頼するという前提を置かなければならない。嘘を付いては、その跡を消してまわるような行いが蔓延することを許していれば、いずれコミュニケーションは成り立たなくなる。つまり社会が崩れるということだ。
番組宣伝 ― 2019年05月02日 12:26

普段まともに視聴もしていない人間が、他人に勧めるのもどうかとは思いますが、二つだけ、この連休中に放送される予定のテレビ番組を紹介します。一つは5月5日(日)9~10時にGTVで放送される「ETV特集 静かで、にぎやかな世界 〜手話で生きる子どもたち〜」。初めて観たとき、“ろう者”が織りなす豊穣な手話表現の世界にうらやましささえ感じたものです。その再放送がETVではなくて、なんと平素は「日曜討論」という“政権与党”の虚言を聞かされる時間帯に編成されます。そのギャップも含めて喜ばしい限りです。
もう一つは5月6日(月)22時25〜50分から始まるEテレ「100分de名著 平家物語」4回シリーズ。能楽師ワキ方の安田登さんによる解説と本人の朗読によって、魂を鎮める芸能の本質が浮かび上がってくることを期待しています。
もう一つは5月6日(月)22時25〜50分から始まるEテレ「100分de名著 平家物語」4回シリーズ。能楽師ワキ方の安田登さんによる解説と本人の朗読によって、魂を鎮める芸能の本質が浮かび上がってくることを期待しています。
ふたつの日本のこれから ― 2019年05月03日 12:28

ふたつの時代のことより、ふたつの日本の方が気になる。
コンビニの受付で外国人を見かけるようになったのは、もう随分と前のことになるが、日本語学習を支援したベトナムの留学生が新聞配達をしながら日本語学校に通学している話を身近に知るようになった時、あらためて社会の基部が多くの外国人によって支えられている現実を考えた。
一方、昨年末あたふたと成立した「出入国管理および難民認定法」の“改定”により、先月から新しい政府組織である出入国在留管理庁が発足し、外国人労働者に対する施策への政府の関与を拡大・簡略化する道が開かれた。もちろん、それは表向きの制度を「技能実習」資格から「特定技能」資格へと継続・更新・拡大し、労働者としての外国人に対して門戸を大きく開くものである。
しかし、自治体の受入施策が十分に進んでいるとは言いがたい状況で、流入する外国人労働者の多くは、依然として民間の監理団体によって実質的に管理されることになるだろう。昨年来、日本語学校から数多くの留学生が失踪したり、技能実習生が受入事業所から逃亡するなど、新聞報道でも伝えられる外国人労働者の現状に根本的な対策が施されないまま、新制度は受け入れに向けて走り出している。
もちろん、心ある事業所で働くことができた人たちは、国際的な競争力が多少落ちたとはいえ、多彩な国内消費を支えている技術展開があり、政治的にも(軍政や政変がないという点で)安定しているこの国で、在留の更新や定住・永住への道を模索するに違いない。
いずれにしても、定義の違いはあれ、多くの「移民」がこの国で働き、暮らし、住み続ける傾向を押しとどめる要因はもうないのだ。単純計算でも数年後には300万人を超えるだろう在留外国人と、地域社会で共生する可能性は急速に高まる。その時、一番本質的な問題は、日本人と外国人という国籍の問題ではなく、正規か非正規かという労働力としてのふたつの人材が、どのように適正に報いられるかどうかだろう。それが、この社会の持続可能性を最大限に高める必須の課題だと考えている。外国人労働者を受け入れるということは、そうした未来のごく一部に過ぎない。そういう段階に来ている。
コンビニの受付で外国人を見かけるようになったのは、もう随分と前のことになるが、日本語学習を支援したベトナムの留学生が新聞配達をしながら日本語学校に通学している話を身近に知るようになった時、あらためて社会の基部が多くの外国人によって支えられている現実を考えた。
一方、昨年末あたふたと成立した「出入国管理および難民認定法」の“改定”により、先月から新しい政府組織である出入国在留管理庁が発足し、外国人労働者に対する施策への政府の関与を拡大・簡略化する道が開かれた。もちろん、それは表向きの制度を「技能実習」資格から「特定技能」資格へと継続・更新・拡大し、労働者としての外国人に対して門戸を大きく開くものである。
しかし、自治体の受入施策が十分に進んでいるとは言いがたい状況で、流入する外国人労働者の多くは、依然として民間の監理団体によって実質的に管理されることになるだろう。昨年来、日本語学校から数多くの留学生が失踪したり、技能実習生が受入事業所から逃亡するなど、新聞報道でも伝えられる外国人労働者の現状に根本的な対策が施されないまま、新制度は受け入れに向けて走り出している。
もちろん、心ある事業所で働くことができた人たちは、国際的な競争力が多少落ちたとはいえ、多彩な国内消費を支えている技術展開があり、政治的にも(軍政や政変がないという点で)安定しているこの国で、在留の更新や定住・永住への道を模索するに違いない。
いずれにしても、定義の違いはあれ、多くの「移民」がこの国で働き、暮らし、住み続ける傾向を押しとどめる要因はもうないのだ。単純計算でも数年後には300万人を超えるだろう在留外国人と、地域社会で共生する可能性は急速に高まる。その時、一番本質的な問題は、日本人と外国人という国籍の問題ではなく、正規か非正規かという労働力としてのふたつの人材が、どのように適正に報いられるかどうかだろう。それが、この社会の持続可能性を最大限に高める必須の課題だと考えている。外国人労働者を受け入れるということは、そうした未来のごく一部に過ぎない。そういう段階に来ている。
大倉山シネマサロン ― 2019年05月06日 12:32

少し前にも触れたことだが、年明け早々から先週の火曜日まで、頭の片隅から離れない懸念があって、それがようやく片付いたところで、こうやって怒濤のように書き出した。考えていた以上のプレッシャーから解放された気分だったからだ。
先週「大倉山シネマサロン」というイベントを開催した。主催者としてである。毎年3月、二日間にわたって開かれる大倉山ドキュメンタリー映画祭で実行委員を務めて4年、その長編の実写ドキュメンタリーを中心にした上映ラインナップからこぼれ落ちる短編を個人的に取り上げてみたかったことが一つ。また、日本語学習を支援した留学生が東京藝大アニメーション専攻であり、「アニメーション・ドキュメンタリー」という当初は聞き慣れない言葉について彼と多くの時間を費やして語り合ったことがもう一つの要因である。
上映したのは『birth つむぐいのち』という3本のオムニバス作品。合わせて20分に満たない短編である。妊婦の体験記を元にアニメーション作家が創ったものだ。アニメーションは制作素材によって全く違う様相を見せることが良くわかる構成にもなっている。個人的な関心で言えば、「いのち」という言葉に惹かれ、“つむぐ”という言葉に一コマずつ気が遠くなるような時間をかけて創るアニメーションの本質を感じた。
総合監督の若見ありささんを迎えて話を聴き、簡単なアニメーションの実演も見せてもらった。チラシを配り、一部の新聞やFacebookなどのSNS等で紹介した結果、講師・スタッフを含めた23名の入場者があり、当の留学生には進行役を引き受けてもらった。そうして、何とか格好が付いて無事に終わることができた。
私自身の頼りない問題意識を多くの友人・知人が補ってくれたことは間違いない。それが何より嬉しかった。それが、こうして勢いづいて書いていることに繋がっている。以前、韓国語を習うために横浜のコリ文語学堂に通っていた頃、「Koribook」という名の受講生SNSがあって、そこにとりとめのない文章をアップしていた。その極めて個人的な営為にいつも反応し支えてくれた(?)人がいたことで今がある。すべては“ぷくニム”から始まったのだと懐かしく思い出している。
先週「大倉山シネマサロン」というイベントを開催した。主催者としてである。毎年3月、二日間にわたって開かれる大倉山ドキュメンタリー映画祭で実行委員を務めて4年、その長編の実写ドキュメンタリーを中心にした上映ラインナップからこぼれ落ちる短編を個人的に取り上げてみたかったことが一つ。また、日本語学習を支援した留学生が東京藝大アニメーション専攻であり、「アニメーション・ドキュメンタリー」という当初は聞き慣れない言葉について彼と多くの時間を費やして語り合ったことがもう一つの要因である。
上映したのは『birth つむぐいのち』という3本のオムニバス作品。合わせて20分に満たない短編である。妊婦の体験記を元にアニメーション作家が創ったものだ。アニメーションは制作素材によって全く違う様相を見せることが良くわかる構成にもなっている。個人的な関心で言えば、「いのち」という言葉に惹かれ、“つむぐ”という言葉に一コマずつ気が遠くなるような時間をかけて創るアニメーションの本質を感じた。
総合監督の若見ありささんを迎えて話を聴き、簡単なアニメーションの実演も見せてもらった。チラシを配り、一部の新聞やFacebookなどのSNS等で紹介した結果、講師・スタッフを含めた23名の入場者があり、当の留学生には進行役を引き受けてもらった。そうして、何とか格好が付いて無事に終わることができた。
私自身の頼りない問題意識を多くの友人・知人が補ってくれたことは間違いない。それが何より嬉しかった。それが、こうして勢いづいて書いていることに繋がっている。以前、韓国語を習うために横浜のコリ文語学堂に通っていた頃、「Koribook」という名の受講生SNSがあって、そこにとりとめのない文章をアップしていた。その極めて個人的な営為にいつも反応し支えてくれた(?)人がいたことで今がある。すべては“ぷくニム”から始まったのだと懐かしく思い出している。
いのちをつむぐこと ― 2019年05月07日 12:36

先日、先月1日時点の人口推計で、日本在住の14歳以下の子どもが前年より18万人減り、総人口に占める割合が1950年以来で過去最低の記録を更新したという。しかも3歳毎の層に分けると年齢が下がるほど少ないそうだ。しかも、この数字は外国人を含む。
内閣府が掲げる少子化対策のページでは“合計特殊出生率”と“生まれる子どもの数”が一緒にグラフ化されている。“合計特殊出生率”は上がっているが、“生まれる子どもの数”は減り続けている。しかし、49歳までをも出産可能とするこの“特殊”な“出生率”は、そもそも人口の自然増減を地域別に比較する場合の参考とするものだ。子どもを産む年代の女性人口が減っているのだから、民間の総研が案じるように、母親の“生まれ年別の累積出生率”が下がり続けていることに本質的な問題がある。しかし、それに対する危機感は薄い。
指標となる統計そのものが信じるに価するかはとりあえずおくとして、子育てをする環境が年々悪化していることだけは、私のように子どもがいない人間にも様々な情報として届く。たとえば、日本語学習を支援している元留学生の修士論文は“日本での妊娠・出産・育児の困難について”がテーマだった。
経済的な面だけをみても、配偶者の年間収入の減少傾向にも関わらず第3号被保険者の年間130万円未満という収入条件を見直す様子はないし、厚生年金のパートへの拡大で、フルタイムの7割近く働いた結果として新たに差し引かれる保険料の影響も大きい。何より労働対価としての賃金が低すぎる。その一方で、専業主婦の年金減額も検討されていると聞く。相応の教育費を組み入れた子育てに必要な“お金”を、今後どのように確保するかに悩まない夫婦はいないだろう。
“いのち”をつむぐことそのものへの関心と、それを社会的に包容する態度、経済的に支援する実質的な対策が充実していかないと、もう少子化は止まらない。それは、大人の“幼児化”と軌を一にしているように見える。
内閣府が掲げる少子化対策のページでは“合計特殊出生率”と“生まれる子どもの数”が一緒にグラフ化されている。“合計特殊出生率”は上がっているが、“生まれる子どもの数”は減り続けている。しかし、49歳までをも出産可能とするこの“特殊”な“出生率”は、そもそも人口の自然増減を地域別に比較する場合の参考とするものだ。子どもを産む年代の女性人口が減っているのだから、民間の総研が案じるように、母親の“生まれ年別の累積出生率”が下がり続けていることに本質的な問題がある。しかし、それに対する危機感は薄い。
指標となる統計そのものが信じるに価するかはとりあえずおくとして、子育てをする環境が年々悪化していることだけは、私のように子どもがいない人間にも様々な情報として届く。たとえば、日本語学習を支援している元留学生の修士論文は“日本での妊娠・出産・育児の困難について”がテーマだった。
経済的な面だけをみても、配偶者の年間収入の減少傾向にも関わらず第3号被保険者の年間130万円未満という収入条件を見直す様子はないし、厚生年金のパートへの拡大で、フルタイムの7割近く働いた結果として新たに差し引かれる保険料の影響も大きい。何より労働対価としての賃金が低すぎる。その一方で、専業主婦の年金減額も検討されていると聞く。相応の教育費を組み入れた子育てに必要な“お金”を、今後どのように確保するかに悩まない夫婦はいないだろう。
“いのち”をつむぐことそのものへの関心と、それを社会的に包容する態度、経済的に支援する実質的な対策が充実していかないと、もう少子化は止まらない。それは、大人の“幼児化”と軌を一にしているように見える。