ブラウン管の向こう側にある虚業 ― 2025年09月10日 17:40
ブルーハーツの『青空』は「ブラウン管の向こう側」という歌詞から始まります。「ドラマ人間模様」シリーズが終了して、単発ドラマ専任となった頃に初めて聴いた時は、この言葉に深く共感したものです。
それは、「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というお決まりのフレーズが、自らの虚業を覆い隠す隠れ蓑ではなく、それだからこそ信頼に基づく“リアリティ”を感じさせるフィクションを創り出すことが大切なのだと考えていたからです。
報道セクションがよく言う、「不偏不党」や「公平・公正」などという“手垢にまみれた言葉”ではなく、「ブラウン管の向こう側」にある現実にどのように対峙するのかという職業意識とも言えるでしょうか。
テレビが虚業であるのと同様、液晶モニターのネット動画も虚業に過ぎません。「マス“ゴミ”」というなら、数十万回も再生される侮蔑や嘘にも当然あてはまります。だからこそ、シンプルな言葉を連ねた中に、人間社会への不信を暗示または隠喩するような歌ばかりを好んで聴いてきたような気もします。
たとえばビートルズ『HELP!』に始まり、S&G『The Sound of Silence』やジョン・レノン『Happy Xmas(War is over)』、Queenの『UnderPressure』、井上陽水『最後のニュース』、忌野清志郎『JUMP』などなどです。
今、そのような歌がどこかにあるでしょうか。
それは、「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というお決まりのフレーズが、自らの虚業を覆い隠す隠れ蓑ではなく、それだからこそ信頼に基づく“リアリティ”を感じさせるフィクションを創り出すことが大切なのだと考えていたからです。
報道セクションがよく言う、「不偏不党」や「公平・公正」などという“手垢にまみれた言葉”ではなく、「ブラウン管の向こう側」にある現実にどのように対峙するのかという職業意識とも言えるでしょうか。
テレビが虚業であるのと同様、液晶モニターのネット動画も虚業に過ぎません。「マス“ゴミ”」というなら、数十万回も再生される侮蔑や嘘にも当然あてはまります。だからこそ、シンプルな言葉を連ねた中に、人間社会への不信を暗示または隠喩するような歌ばかりを好んで聴いてきたような気もします。
たとえばビートルズ『HELP!』に始まり、S&G『The Sound of Silence』やジョン・レノン『Happy Xmas(War is over)』、Queenの『UnderPressure』、井上陽水『最後のニュース』、忌野清志郎『JUMP』などなどです。
今、そのような歌がどこかにあるでしょうか。
青い空の真下は ― 2025年09月09日 17:38
久しぶりにブルーハーツの『青空』を聴いています。その昔、NHKの音楽番組で演奏した時に、甲本ヒロトの歌い方に対して視聴者から大きな反響があったことでも良く知られている楽曲です。
和歌の掛け言葉ではありませんが、いくつもの暗示を想像させる歌詞の最後にふさわしく、「青い空の真下」は、どのような状況なのかを“自らにも問いかける”メッセージが置かれています。
それは、こんな言葉でした。
「こんなはずじゃなかっただろ? 歴史が僕を問いつめる」
そして、この一節は、真島昌利が当初に書いた次の言葉から“変えられた”ものでした。
「安っぽい神様たちが 君をメクラにするだろう」
日本のロック音楽史上に残る名曲には、いまだに辿り着けない深淵があるように感じます。
和歌の掛け言葉ではありませんが、いくつもの暗示を想像させる歌詞の最後にふさわしく、「青い空の真下」は、どのような状況なのかを“自らにも問いかける”メッセージが置かれています。
それは、こんな言葉でした。
「こんなはずじゃなかっただろ? 歴史が僕を問いつめる」
そして、この一節は、真島昌利が当初に書いた次の言葉から“変えられた”ものでした。
「安っぽい神様たちが 君をメクラにするだろう」
日本のロック音楽史上に残る名曲には、いまだに辿り着けない深淵があるように感じます。
旅する語りの系譜 ― 2025年06月23日 17:18
長時間の外出が難しくなってしまい、様々な伝統芸能のイベントに行けない状態です。3月に初めて伺った経堂「さばのゆ」の吉坊一人会を最後に公演の鑑賞が途絶えています。
ドキュメンタリーを含む映画も、3月末にJ&Bで観た『君への挽歌』以来、久しく行っていないので、いよいよネットの“VOD”を契約しようかと悩んでいるところでもあります。
その一方で、積ん読本を整理し、段ボール4箱ほどを古書店に引き取ってもらいながら、少し前の鑑賞資料やら関連本を拾い読みしていているうちに、“うた”に関する様々な興味がつながっていくことに面白さを感じていました。
そんな折、旧Twitterに流れてきた短い訃報で、あの沢村豊子師匠がお亡くなりになったと知りました。浪曲三味線の第一人者で、長い芸歴と豊かな超絶技巧を併せ持った斯界の“宝”のような人です。私が最初にその“音”を聴いたのは、まだ荏原中延にあったころの「隣町珈琲」でした。9年前のことです。『陸奥間違い』と『豊子と奈々福の浪花節更紗』の新旧二席を小さな会場の目と鼻の先で堪能しました。
その前年、姜信子さんの福島の旅の報告で奈々福さんの語りは聴いていましたが、浪曲はこの時が初めてで、それまで抱いていた濁声の虎造節のイメージがすっかり払拭されたことを記憶しています。
以来、様々な場で二人の公演を聴いてきましたが、同時にそれは、その周りに連なる人々の「語り・カタリ」を聴くことにも繋がりました。今回、豊子師匠の訃報に関連したリポストの中に、奈々福さんが2018年にブログで書いた「沢村豊子一代記」の紹介があり、その記事の最後には姜さんの著書『現代説経集』がリンクされています。その中に記載されているパンソリの唄者である安聖民さんとの「かもめ組」も亀戸で聴きましたが、豊子師匠がずっと持ち続けていた“キムさん”への心残りがひときわ印象に残ります。後に観ることになる多田富雄の新作能『望恨歌』へも重なりました。
豊子師匠は「旅するカタリ」の系譜なき歴史に連なる象徴的な人でもあったことを、今さらながら強く意識する思いです。ご冥福をお祈りします。
ドキュメンタリーを含む映画も、3月末にJ&Bで観た『君への挽歌』以来、久しく行っていないので、いよいよネットの“VOD”を契約しようかと悩んでいるところでもあります。
その一方で、積ん読本を整理し、段ボール4箱ほどを古書店に引き取ってもらいながら、少し前の鑑賞資料やら関連本を拾い読みしていているうちに、“うた”に関する様々な興味がつながっていくことに面白さを感じていました。
そんな折、旧Twitterに流れてきた短い訃報で、あの沢村豊子師匠がお亡くなりになったと知りました。浪曲三味線の第一人者で、長い芸歴と豊かな超絶技巧を併せ持った斯界の“宝”のような人です。私が最初にその“音”を聴いたのは、まだ荏原中延にあったころの「隣町珈琲」でした。9年前のことです。『陸奥間違い』と『豊子と奈々福の浪花節更紗』の新旧二席を小さな会場の目と鼻の先で堪能しました。
その前年、姜信子さんの福島の旅の報告で奈々福さんの語りは聴いていましたが、浪曲はこの時が初めてで、それまで抱いていた濁声の虎造節のイメージがすっかり払拭されたことを記憶しています。
以来、様々な場で二人の公演を聴いてきましたが、同時にそれは、その周りに連なる人々の「語り・カタリ」を聴くことにも繋がりました。今回、豊子師匠の訃報に関連したリポストの中に、奈々福さんが2018年にブログで書いた「沢村豊子一代記」の紹介があり、その記事の最後には姜さんの著書『現代説経集』がリンクされています。その中に記載されているパンソリの唄者である安聖民さんとの「かもめ組」も亀戸で聴きましたが、豊子師匠がずっと持ち続けていた“キムさん”への心残りがひときわ印象に残ります。後に観ることになる多田富雄の新作能『望恨歌』へも重なりました。
豊子師匠は「旅するカタリ」の系譜なき歴史に連なる象徴的な人でもあったことを、今さらながら強く意識する思いです。ご冥福をお祈りします。
揺れる舞台の死と再生 ― 2024年12月24日 17:36
久しぶりに横浜港の艀(はしけ)を訪ねました。前日は15度を超える春のような陽気でしたが、一昨日は少し冬らしい寒風が吹き抜ける海に近い道を歩きます。今回も横浜ボートシアターの自主公演ではなく、船劇場に仮設された小さな舞台で、珍しい人形劇の公演が開かれたのです。
メキシコの脚本家で人形遣いでもあるモニカ・ホスさんが創作した『EMA』というオリジナル劇は、“死”が身近に意識されるメキシコならではの構成の中に、様々な文化的な意匠が織り込まれた形而上的な作品でした。
舞台には鉢植えの低木と木のベンチのミニチュアが置かれ、そこに老婆の人形が登場します。老衰を感じさせる細かな動きは、ホスさん自らが両手で直接操る小ぶりの人形で、枯れ木に水をやった後は、ただひたすらに自らの行く末に思いを馳せるばかりです。背景にかけられた布のスクリーンに、冥界や天界の多様な存在が影となって映し出される一方、ラテン系らしいと言っていいのかわかりませんが、時に熱情的な詩が朗読されます。そこには形式的な類似を超えた“死”の世界観のようなものが感じられました。
元々は子供向けの人形劇を多く書いてきたホスさんが、日本への訪問を機に大人向けに書いたオリジナル脚本で各地を公演するライブツアーがあり、たまたま船劇場の存在を知った弟子の高橋彩子さんが、日本での千秋楽の場所とするべく急遽実現に至ったそうです。岸壁に係留されていても、波止場に寄せる波に揺らされる艀の中は、特別な雰囲気のある空間を創り出すのに最適だったのでしょう。終演後、お二人はしばらく表に顔を出すことができませんでした。
人形やセットなど、いずれも日常の回りにある素材で作られた物ですが、わずかな時間、そこに命が吹き込まれたような気がします。最後、鉢植えの低木にかけられた小さな葉っぱのつながりが、命の連関を思わせて、横たわって死んだ老婆を見守っていました。トークを含めた講演全体が終わった後、劇中の影に表れた水紋の仕掛けがわかりました。水を張った水盤に墨や油を流して、それをオーバーヘッドプロジェクターで投影していたのです。ふと、砂絵アニメーションの制作風景を思い出しました。
公演そのものは短いものでしたが、とても充実した時間を過ごした気分です。
メキシコの脚本家で人形遣いでもあるモニカ・ホスさんが創作した『EMA』というオリジナル劇は、“死”が身近に意識されるメキシコならではの構成の中に、様々な文化的な意匠が織り込まれた形而上的な作品でした。
舞台には鉢植えの低木と木のベンチのミニチュアが置かれ、そこに老婆の人形が登場します。老衰を感じさせる細かな動きは、ホスさん自らが両手で直接操る小ぶりの人形で、枯れ木に水をやった後は、ただひたすらに自らの行く末に思いを馳せるばかりです。背景にかけられた布のスクリーンに、冥界や天界の多様な存在が影となって映し出される一方、ラテン系らしいと言っていいのかわかりませんが、時に熱情的な詩が朗読されます。そこには形式的な類似を超えた“死”の世界観のようなものが感じられました。
元々は子供向けの人形劇を多く書いてきたホスさんが、日本への訪問を機に大人向けに書いたオリジナル脚本で各地を公演するライブツアーがあり、たまたま船劇場の存在を知った弟子の高橋彩子さんが、日本での千秋楽の場所とするべく急遽実現に至ったそうです。岸壁に係留されていても、波止場に寄せる波に揺らされる艀の中は、特別な雰囲気のある空間を創り出すのに最適だったのでしょう。終演後、お二人はしばらく表に顔を出すことができませんでした。
人形やセットなど、いずれも日常の回りにある素材で作られた物ですが、わずかな時間、そこに命が吹き込まれたような気がします。最後、鉢植えの低木にかけられた小さな葉っぱのつながりが、命の連関を思わせて、横たわって死んだ老婆を見守っていました。トークを含めた講演全体が終わった後、劇中の影に表れた水紋の仕掛けがわかりました。水を張った水盤に墨や油を流して、それをオーバーヘッドプロジェクターで投影していたのです。ふと、砂絵アニメーションの制作風景を思い出しました。
公演そのものは短いものでしたが、とても充実した時間を過ごした気分です。
定番への「はて?」が開く新しい芸能の夜明け ― 2024年12月10日 17:31
今年最後の寺参りに相応しい素晴らしい公演でした。台東区竜泉と言えば樋口一葉を思い浮かべますが、今回は入谷に近い西徳寺という真宗のお寺。聞法(もんぼう)と呼ばれる仏の教えを聴聞することもある本堂の椅子席で、玉川奈々福さんの“語り”を聴きました。この日の演目は、西徳寺で菩提を弔われている十八代中村勘三郎丈が襲名披露で演じた野田版歌舞伎『研辰(とぎたつ)の討たれ』を浪曲化したもので、十三回忌の法要を兼ねた「…を聞く会」としての開催です。
前読みもなく、開会早々に奈々福さんが出てきて、まずは「義士伝」と「忠臣蔵」の解説。江戸は元禄時代に起きた赤穂事件の概要と、その波紋から生まれた数多くの芝居や劇作を紹介し、日本人の精神形成にも大きな影響があったこの物語の普遍性を説明します。
ただ、昭和の時代であれば、年の暮れにはテレビ時代劇の定番と言われるほど大衆文化に定着した「忠臣蔵」も、今はすっかり影を潜めました。巷(ちまた)には「天野屋」のような義商どころか今日の儲けを最優先する“越後屋”が跋扈(ばっこ)しています。今では“義”や“忠”も少々危うい状況ですが、今回の主演目は、その人間的な本質につながる考え方そのものを問い直してみる作品なのです。
そこで、まずは最初に赤穂事件に関連して生まれたスピンオフの物語『赤垣源蔵・徳利の別れ』の一席が演じられ、休憩を挟んだ後半に“人間的な本質”を問う傑作『研辰の討たれ』があるという構成になっています。「とっくりのわかれ」と「とぎたつのうたれ」、見事な掛詞にもなっています。
『赤垣…』は講談から来た演目らしく、赤穂義士の討ち入り前と直後のエピソードを、兄弟を囲む人間関係の中に生き生きと描き出す語り物で、まさしく“義”や“忠”を象徴するものです。勘三郎丈の遺影も飾られる本堂の中央で、奈々福さんはいつもより少し緊張している様子がうかがえました。
『研辰…』の方は、シネマ歌舞伎として映像にも残されている作品で、歌舞伎らしく華やかで多人数が出てくるものなので、10人近い登場人物を描き分けるだけでも大変です。それ自体がとても挑戦的な演目なのですが、それに加え、浪曲という語りの象徴でもある“人情”や“義”に「はて?」を投げかける主人公の有り様への共感も得ようと考えれば、二重に困難な取り組みだったとも言えるでしょう。
豊子師匠を彷彿とさせる美舟さんの相三味線と二人のお囃子方にも支えられ、それを見事にこなす奈々福さんを、平成中村座で歌舞伎界に新風を巻き起こした勘三郎丈は、草葉の陰から心強く見守っていたことと思います。とても心に沁みました。
木村綿花から野田秀樹へと受け継がれてきたこの問題作には、今失われている真っ当な社会批評の数々が散りばめられていて、所々に現代の社会問題に通じる表象が現れます。それは、この演目に表れる表現が浪曲の新しい“ありよう”を開き始めていることにつながっているはずです。その取り組みに心からのエールを送りたいと思います。
前読みもなく、開会早々に奈々福さんが出てきて、まずは「義士伝」と「忠臣蔵」の解説。江戸は元禄時代に起きた赤穂事件の概要と、その波紋から生まれた数多くの芝居や劇作を紹介し、日本人の精神形成にも大きな影響があったこの物語の普遍性を説明します。
ただ、昭和の時代であれば、年の暮れにはテレビ時代劇の定番と言われるほど大衆文化に定着した「忠臣蔵」も、今はすっかり影を潜めました。巷(ちまた)には「天野屋」のような義商どころか今日の儲けを最優先する“越後屋”が跋扈(ばっこ)しています。今では“義”や“忠”も少々危うい状況ですが、今回の主演目は、その人間的な本質につながる考え方そのものを問い直してみる作品なのです。
そこで、まずは最初に赤穂事件に関連して生まれたスピンオフの物語『赤垣源蔵・徳利の別れ』の一席が演じられ、休憩を挟んだ後半に“人間的な本質”を問う傑作『研辰の討たれ』があるという構成になっています。「とっくりのわかれ」と「とぎたつのうたれ」、見事な掛詞にもなっています。
『赤垣…』は講談から来た演目らしく、赤穂義士の討ち入り前と直後のエピソードを、兄弟を囲む人間関係の中に生き生きと描き出す語り物で、まさしく“義”や“忠”を象徴するものです。勘三郎丈の遺影も飾られる本堂の中央で、奈々福さんはいつもより少し緊張している様子がうかがえました。
『研辰…』の方は、シネマ歌舞伎として映像にも残されている作品で、歌舞伎らしく華やかで多人数が出てくるものなので、10人近い登場人物を描き分けるだけでも大変です。それ自体がとても挑戦的な演目なのですが、それに加え、浪曲という語りの象徴でもある“人情”や“義”に「はて?」を投げかける主人公の有り様への共感も得ようと考えれば、二重に困難な取り組みだったとも言えるでしょう。
豊子師匠を彷彿とさせる美舟さんの相三味線と二人のお囃子方にも支えられ、それを見事にこなす奈々福さんを、平成中村座で歌舞伎界に新風を巻き起こした勘三郎丈は、草葉の陰から心強く見守っていたことと思います。とても心に沁みました。
木村綿花から野田秀樹へと受け継がれてきたこの問題作には、今失われている真っ当な社会批評の数々が散りばめられていて、所々に現代の社会問題に通じる表象が現れます。それは、この演目に表れる表現が浪曲の新しい“ありよう”を開き始めていることにつながっているはずです。その取り組みに心からのエールを送りたいと思います。