快挙と暴挙の間 ― 2022年12月06日 23:48
過日、東京新聞の一面にサッカーの“歴史的快挙”と並んで政権の歴史的暴挙が載りました。「新しい資本主義」とやらはとっくに消え失せ、いつの間にか「新しい軍国主義」にすり替わっています。政府批判をポリコレなどと揶揄するこの国の隷従思想が導いた結果です。過日、再放送されたETV特集「開戦への道」(前後編)の最後は、「そうだ結局勢といふもので戦争はしてはいかぬと思ひながらああいふ事になった」と初代宮内庁長官が“拝聴記”に残した昭和天皇の言葉で終わっています。
まもなく、この国がマレー半島へ侵攻を始めた日ですが、未だに、留学生へ“新しい戦前”という言葉を使い始めるかどうかを逡巡している自分がいます。
まもなく、この国がマレー半島へ侵攻を始めた日ですが、未だに、留学生へ“新しい戦前”という言葉を使い始めるかどうかを逡巡している自分がいます。
正解の無い問いへの声 ― 2022年12月11日 23:49
毎土曜のTBS「報道特集」以外、リアルタイムでテレビを観る習慣が無くなっているせいか、録画番組の再生の合間に一瞬映る情報バラエティ系の番組内で裏返った大声で語るテレビタレントに、強い忌避感があります。
一方で、対面で行っている日本語レッスンの中に、時々はっと気付かされる貴重な声を感じることがあります。1年半近く、1対1で進めてきた人間関係に、新しく加わった二人目の学習者の存在がとても大きな変化を促しています。それは、たとえば休憩中にボランティアが席をはずしている時間の二人の様子にも見て取れます。国は違っても、それぞれ母国から離れて日本で暮らしている同世代として、お互いの関心にもとづく対話が自然に生まれています。その柔らかな声の交換にほっとします。
また、作文の添削例を説明しているときに起きる率直な疑問の声も貴重です。それはつぶやきにも似た小さな声なので、難聴気味の私は思わず耳を近づけて聞き取ろうとします。ある時は恥ずかしそうに、ある時は真っ直ぐに向かってくる外国人の日本語には、自分自身も失っていたかもしれない”問い”への響きを感じるのです。
能楽師の安田さんがTwitterに書いていたことですが、学校の子どもたちは「正解のある問い」には大声で答え、「正解のない問い」には“ぼそっ”と応えるそうです。それを聞き逃さないのが大変だといいます。「正解のない問い」に向き合う混迷の時代に、言葉を考える貴重な時間を過ごしていることを実感しています。
一方で、対面で行っている日本語レッスンの中に、時々はっと気付かされる貴重な声を感じることがあります。1年半近く、1対1で進めてきた人間関係に、新しく加わった二人目の学習者の存在がとても大きな変化を促しています。それは、たとえば休憩中にボランティアが席をはずしている時間の二人の様子にも見て取れます。国は違っても、それぞれ母国から離れて日本で暮らしている同世代として、お互いの関心にもとづく対話が自然に生まれています。その柔らかな声の交換にほっとします。
また、作文の添削例を説明しているときに起きる率直な疑問の声も貴重です。それはつぶやきにも似た小さな声なので、難聴気味の私は思わず耳を近づけて聞き取ろうとします。ある時は恥ずかしそうに、ある時は真っ直ぐに向かってくる外国人の日本語には、自分自身も失っていたかもしれない”問い”への響きを感じるのです。
能楽師の安田さんがTwitterに書いていたことですが、学校の子どもたちは「正解のある問い」には大声で答え、「正解のない問い」には“ぼそっ”と応えるそうです。それを聞き逃さないのが大変だといいます。「正解のない問い」に向き合う混迷の時代に、言葉を考える貴重な時間を過ごしていることを実感しています。
自律して殺人を犯すロボットの未来 ― 2022年12月16日 23:50
日本語学習者の作文にロボットの話が出てきました。施設の案内をしたり、人間と言葉を交わすなど、人や犬などの形を模したロボットが社会生活の様々な場面に登場するようになっています。近い将来、人間が携わっている多くの業務をロボットが代行するようになるかもしれません。その時、「自動運転」のように機械そのものの形のまま人間の手を経ずに制御を自動化するものもあれば、ある種の“顔”を持って人間や動物の動きをなぞり、対人関係を形作るものも出てくるでしょう。
そうした未来社会への期待を膨らませる一方で、私は一つの懸念を持ちます。それは、科学技術の発達が、何よりもまず兵器によって牽引されてきた事情があるからです。今、戦場には無人兵器が使われるようになりました。中には遠隔制御で動くのではなく、“自律”的に攻撃目標を設定するものも開発されています。
何を持って“自律”(自らを律する)と呼ぶのかは良く分かりませんが、命令に隷従(あるいは逡巡)する人間の兵士よりも、判断(何の?)に優れているということでしょうか。いずれにしても、そうした“人殺し”の兵器に開発予算が振り向けられるのは、それがいわゆる市場経済から外れた国家予算の枠内にあるからに他なりません。国が破産しなければ借金は永遠に続きます。
さて、ロボットが人間に置き換わる最初の数例の一つは、おそらく無人兵士となることでしょう。開発にかかる膨大な金額は租税で賄われます。それが、どんな名目であるかどうかなど関係ありません。究極は効率的に人が殺せれば良いということです。誰が死のうが関係ない。巻き添えになる市民が悪いのです。そうして、多くの犠牲者の傍らに、まだ殺す人間は残っていないのかと視線を走らすロボット兵士が歩く姿を想像します。
某国のカルトに時代遅れの教義で泳がされる一方、某大国には時代遅れのミサイルを大量に買わされるどこかの国には、そうした想像にさえ遠く及ばないような無謀がウィルス以上に蔓延しているようで、何ともやりきれない思いです。
そうした未来社会への期待を膨らませる一方で、私は一つの懸念を持ちます。それは、科学技術の発達が、何よりもまず兵器によって牽引されてきた事情があるからです。今、戦場には無人兵器が使われるようになりました。中には遠隔制御で動くのではなく、“自律”的に攻撃目標を設定するものも開発されています。
何を持って“自律”(自らを律する)と呼ぶのかは良く分かりませんが、命令に隷従(あるいは逡巡)する人間の兵士よりも、判断(何の?)に優れているということでしょうか。いずれにしても、そうした“人殺し”の兵器に開発予算が振り向けられるのは、それがいわゆる市場経済から外れた国家予算の枠内にあるからに他なりません。国が破産しなければ借金は永遠に続きます。
さて、ロボットが人間に置き換わる最初の数例の一つは、おそらく無人兵士となることでしょう。開発にかかる膨大な金額は租税で賄われます。それが、どんな名目であるかどうかなど関係ありません。究極は効率的に人が殺せれば良いということです。誰が死のうが関係ない。巻き添えになる市民が悪いのです。そうして、多くの犠牲者の傍らに、まだ殺す人間は残っていないのかと視線を走らすロボット兵士が歩く姿を想像します。
某国のカルトに時代遅れの教義で泳がされる一方、某大国には時代遅れのミサイルを大量に買わされるどこかの国には、そうした想像にさえ遠く及ばないような無謀がウィルス以上に蔓延しているようで、何ともやりきれない思いです。
世代が繋ぐ伝統の芸 ― 2022年12月19日 23:52
久しぶりに目黒へ出かけました。一昨年、まだコロナ禍の影も全く無かった頃、明学大で開かれたセミナーに参加して以来のことです。今回訪ねたのは喜多能楽堂。こちらの方は4年ぶりで、「やるまい会」と題する狂言の公演を観てきました。和泉流狂言方の野村又三郎師が主催するこの公演は年一回の特別公演。披露された三題それぞれに実の親子が共演するということで「親の心・子の思い」というテーマになっています。
最初が『空腹(そらはら)』。この9月に復曲したばかりの演目で、一言で云えば“Air切腹”です。年の瀬の金欠で首が回らなくなっている“何某”が、“何某”宅へ無心(むしん)をしに訪ねます。落語に出てきそうな登場人物ですが、舞台では互いに芸名(又三郎と信郞“殿”)で呼び合っていました。一旦は物別れしたものの、他に頼るところもなく再度の無心に一計を案じます。「金子は無用だが座敷を借りたい」と持ちかけ、部屋に入ったところで腹を切るぞと騒ぎ立てる趣向です。現実には保護者でもある父親が、舞台上で東京藝大4年の息子に頭を下げるという逆様(さかさま)も面白く、大変愉快な舞台でした。
次は『舟渡聟(ふなわたしむこ)』。都近くに住む新婚の聟が、近江にある新婦の実家を初めて訪ねるため、琵琶湖の渡し船に乗るところから始まります。戻り船の渡守(わたしもり)は、客となった聟が持つ手土産の酒が飲みたくてしようがない。一口で良いから飲ませろとしつこく迫ります。あげくは飲ませなければ、船を止めるの返すのと言い出す始末。やむおえず飲ませて対岸に着きますが、軽くなった樽を土産に訪れた実家の舅が“誰あろう”という話です。舟に揺られながらピッタリと息が合った遣り取りが素晴らしく、舞台から湖の風が流れてきました。さすがに実の親子(奥津健太郎さんとこの春藝大に入学した健一郎さん)ならではです。狂言としては珍しく、最後にシテ・アドが三番叟のように足を踏み鳴らしての双舞となりました。予祝の表現なのでしょうか。
最後は『禰宜山伏』。とある街道の茶屋が舞台です。演目では“禰宜”ですが、まず登場するのは伊勢神宮の“御師(おし)”。今ならさしずめツアーコンダクターです。各地の参詣者に参拝の案内をするために全国を回る途中、茶屋に足を止めます。出されたお茶をほめる所はいかにも如才(じょさい)がありません。そこに現れたのが、熊野での修行を終え出羽(でわ)へ帰る山伏。霊験を得たのか何かにつけ威張り散らすところが御師と対照的です。出された茶が熱いぬるいから始まり、しまいには御師と信仰の言い争いになります。埒(らち)が明かないのを見てとった茶屋の主人が、お宝の大黒様を持ち出して、祈禱で顔を向かせた方を勝ちとしたらと発案します。シテ(山伏)役の野口隆行さんの娘さんが小さな大黒様を熱演し会場を沸かせました。
三題三様でありながら、狂言が持つ批評性が存分に活かされた演目で、権威を笑うその姿勢は現代にも深く通じると感じる見事な公演でした。
最初が『空腹(そらはら)』。この9月に復曲したばかりの演目で、一言で云えば“Air切腹”です。年の瀬の金欠で首が回らなくなっている“何某”が、“何某”宅へ無心(むしん)をしに訪ねます。落語に出てきそうな登場人物ですが、舞台では互いに芸名(又三郎と信郞“殿”)で呼び合っていました。一旦は物別れしたものの、他に頼るところもなく再度の無心に一計を案じます。「金子は無用だが座敷を借りたい」と持ちかけ、部屋に入ったところで腹を切るぞと騒ぎ立てる趣向です。現実には保護者でもある父親が、舞台上で東京藝大4年の息子に頭を下げるという逆様(さかさま)も面白く、大変愉快な舞台でした。
次は『舟渡聟(ふなわたしむこ)』。都近くに住む新婚の聟が、近江にある新婦の実家を初めて訪ねるため、琵琶湖の渡し船に乗るところから始まります。戻り船の渡守(わたしもり)は、客となった聟が持つ手土産の酒が飲みたくてしようがない。一口で良いから飲ませろとしつこく迫ります。あげくは飲ませなければ、船を止めるの返すのと言い出す始末。やむおえず飲ませて対岸に着きますが、軽くなった樽を土産に訪れた実家の舅が“誰あろう”という話です。舟に揺られながらピッタリと息が合った遣り取りが素晴らしく、舞台から湖の風が流れてきました。さすがに実の親子(奥津健太郎さんとこの春藝大に入学した健一郎さん)ならではです。狂言としては珍しく、最後にシテ・アドが三番叟のように足を踏み鳴らしての双舞となりました。予祝の表現なのでしょうか。
最後は『禰宜山伏』。とある街道の茶屋が舞台です。演目では“禰宜”ですが、まず登場するのは伊勢神宮の“御師(おし)”。今ならさしずめツアーコンダクターです。各地の参詣者に参拝の案内をするために全国を回る途中、茶屋に足を止めます。出されたお茶をほめる所はいかにも如才(じょさい)がありません。そこに現れたのが、熊野での修行を終え出羽(でわ)へ帰る山伏。霊験を得たのか何かにつけ威張り散らすところが御師と対照的です。出された茶が熱いぬるいから始まり、しまいには御師と信仰の言い争いになります。埒(らち)が明かないのを見てとった茶屋の主人が、お宝の大黒様を持ち出して、祈禱で顔を向かせた方を勝ちとしたらと発案します。シテ(山伏)役の野口隆行さんの娘さんが小さな大黒様を熱演し会場を沸かせました。
三題三様でありながら、狂言が持つ批評性が存分に活かされた演目で、権威を笑うその姿勢は現代にも深く通じると感じる見事な公演でした。
星の世界のレクイエム ― 2022年12月26日 23:53
不思議な演劇を鑑賞して心が揺さぶられる想いが残りました。クリスマスの午後。東京の亀戸文化センターで開かれた公演は、宮沢賢治が繰り返し書き直した『銀河鉄道の夜』の第三次稿を元にしたレクイエムのような音楽劇です。
アジアの伝統楽器、語りと歌と人形の声、電子楽器と打楽器、チェロなどによる小さな混成オケが、ピットではなく舞台の背後にずらりと並び、舞台中央にはぽつんと二つの椅子が置かれています。まるで、能の囃子方座と蔓桶のようです。
最初に、玉川奈々福さんによる口上とあらすじ紹介があって、おもむろに劇は始まります。まるで、ヴィクトリア朝の大衆演劇のようです。舞台両袖から出てきた人形は、主人公ジョバンニとカンパネルラ。車窓の風景を眺めるように同じ方向を向きながら、時々会話するために対面します。人形の操作と声はそれぞれ別の人。文楽のような細かい仕草はありませんが、両手を使って様々に場面を作ります。
「星めぐりの歌」と『春と修羅』冒頭から始まった序章は、名乗りを促されたジョバンニの独白で始まりました。ケンタウル祭なのに仲間外れのジョバンニの孤独は、いつのまにか丘に聳える尖塔のような風景の中から銀河ステーションに移っていきます。正面の壁にはますむらひろしさんのイラストが映し出され、あたかも幻想の“あはひ”を明示します。
白鳥の停車場を過ぎて出てくる“鳥を捕る男”とサギのやりとりは、生きとし生けるものへのまなざしに溢れ、車掌の検札にジョバンニが取り出す特別な切符には南無妙法蓮華教の仏性が重なります。そして、それらが呼び寄せたように、豪華客船タイタニック号の被災者が現れるのです。
氷山との接触によって沈没した船の乗客は白旗の源氏に追われた平知盛の怨霊に引きずり込まれる幻想にも重なりますが、一方で人生の最後を迎えるための慰霊の演奏は、人々が想うクリスマスの原像に触れるような宗教的印象を持ちました。
休憩明けの第二部は様々な別れの場面です。リンゴの匂いや、利他の“さそり”は死を予感します。被災した子どもたちを始め、サウザンクロスに向かう多くの人たちが列車を降りていきます。そして、「いつまでも一緒に」と約束したはずのカンパネルラもいつのまにか消えてしまうのです。
残されたジョバンニに黒い帽子の男が語りかけます。「あらゆるひとのいちばんの幸福(さいわい)をさがし、みんなと一緒にそこに行ったときに、またカンパネルラに会える」。その幸福とは何なのかを考えるのが、未完で残した賢治の“問い”だと安田さんはパンフレットに書きました。
アジアの伝統楽器、語りと歌と人形の声、電子楽器と打楽器、チェロなどによる小さな混成オケが、ピットではなく舞台の背後にずらりと並び、舞台中央にはぽつんと二つの椅子が置かれています。まるで、能の囃子方座と蔓桶のようです。
最初に、玉川奈々福さんによる口上とあらすじ紹介があって、おもむろに劇は始まります。まるで、ヴィクトリア朝の大衆演劇のようです。舞台両袖から出てきた人形は、主人公ジョバンニとカンパネルラ。車窓の風景を眺めるように同じ方向を向きながら、時々会話するために対面します。人形の操作と声はそれぞれ別の人。文楽のような細かい仕草はありませんが、両手を使って様々に場面を作ります。
「星めぐりの歌」と『春と修羅』冒頭から始まった序章は、名乗りを促されたジョバンニの独白で始まりました。ケンタウル祭なのに仲間外れのジョバンニの孤独は、いつのまにか丘に聳える尖塔のような風景の中から銀河ステーションに移っていきます。正面の壁にはますむらひろしさんのイラストが映し出され、あたかも幻想の“あはひ”を明示します。
白鳥の停車場を過ぎて出てくる“鳥を捕る男”とサギのやりとりは、生きとし生けるものへのまなざしに溢れ、車掌の検札にジョバンニが取り出す特別な切符には南無妙法蓮華教の仏性が重なります。そして、それらが呼び寄せたように、豪華客船タイタニック号の被災者が現れるのです。
氷山との接触によって沈没した船の乗客は白旗の源氏に追われた平知盛の怨霊に引きずり込まれる幻想にも重なりますが、一方で人生の最後を迎えるための慰霊の演奏は、人々が想うクリスマスの原像に触れるような宗教的印象を持ちました。
休憩明けの第二部は様々な別れの場面です。リンゴの匂いや、利他の“さそり”は死を予感します。被災した子どもたちを始め、サウザンクロスに向かう多くの人たちが列車を降りていきます。そして、「いつまでも一緒に」と約束したはずのカンパネルラもいつのまにか消えてしまうのです。
残されたジョバンニに黒い帽子の男が語りかけます。「あらゆるひとのいちばんの幸福(さいわい)をさがし、みんなと一緒にそこに行ったときに、またカンパネルラに会える」。その幸福とは何なのかを考えるのが、未完で残した賢治の“問い”だと安田さんはパンフレットに書きました。