「論理国語」という日本語?2020年01月06日 08:14

留学生の日本語学習を支援すると言っても、420時間の養成講座や大学の専攻課程を修了した正式の資格を持っているわけではないし、相手の留学生も、日本語の論文チェックやら、能力検定の受検対策、敬語を含む様々な会話、日本文化の紹介など望むことはそれぞれに違う。ただ、一番最初のレッスンで必ず言うことがある。それは私の考え方や態度がいわゆる日本人一般とは少し(かなり?)外れているということだ。
 日本語能力試験N1の模試で満点が取れず、漢字も良く知らなければ、書く字も汚い。話が支離滅裂に跳ぶことも多く、何より人付き合いがとても苦手だ。それでも日本語ネイティブで60年以上生きてきたから、かろうじて彼らの“問い”に何とか応えることができている(つもりだ)。解らなければ、その場で考えてみる。もちろん、電子辞書で確認することも厭わないが、まずは自分で考える。だから、時々間違える。ネイティブでも間違えるほど難しいと思うか、ネイティブでも間違えるのだから当の留学生自身が間違えるのも無理はないと考えるか、微妙なところではあるが、彼らは間違えることを気にしなくなることだけは確かだ。
 高校教科に「論理国語」という表現が現れて、「生徒会の議事録と生徒会の規約が掲載されていて、その議事録と生徒会の規約の文言を読んで、年度内に生徒総会を開くことは可能かどうかについて答えよ」という模試問題が示されたそうだ。それを聞いて、これは日本語能力検定の設問だと瞬間的に判断した。この国で日本人に混じって社会生活をする上での情報の取捨選択に関する“標準”的なリテラシーを問う問題である。それは、記述されていることをそのままに受け止め、指示通りに解釈する能力を養成するものだ。そこには市民的な成熟も要求されていないし、ましてや批判的に考量することも見込まれてはいない。
 留学生はそれぞれの母語を使って“論理”的な思考を行えば良いのであって、通常、日本語でそれを代替する必要はない。だから、外国語としての日本語を文化的な生活をする上での“標準”的な理解の範囲にとどめておいて一向に差し支えない。しかし、日本語を母語とする高校生(日本人だけではない!)が、「国語」という名前を冠した“標準”的なリテラシーだけ備えていれば良いと文科相の役人は考えているのだろうか。慄然とする。