少しアナーキーな語り ― 2019年11月05日 18:42

もう1週間も前になるが、西荻窪の忘日舎で「旅するカタリ」を聴いてきた。例の“野生会議99”が始まり、春から夏にかけ連続して開催されたゼミナールにも毎回参加したので、今年に入ってから西荻窪にはずいぶんと通っている。ただ、姜さんと八太夫さんが奈良へ引っ越したので、その分、今後は間が空くかもしれないが…。
さて今回は、8月末にあった水俣での“アナーキー”な集まりを経て、その成果の一部を東京でも披露するというもの。久しぶりに石牟礼道子の“じょろり”を中心にしたカタリの数々だった。まず、“しんけいどん”と呼ばれた祖母を投影するような「おえんしゃま」が出てくる『西南役伝説』拾遺から「草文」の一節。手元にテキストが無いので詳しい話は書けないが(そのうち古書で買うつもり)、山の路傍に置かれた円形の“わらすぼ”(草文)が、今は亡き「おえんしゃま」を偲ばせるという話。短い藁の一方を玉留めのように捻って丸くした“わらすぼ”の形は、私が佐賀県に赴任していた頃、郷土料理店などでよく見かけた有明海の魚“ワラスボ”を連想させるものだった。この「ワラスボ」の漢字名が“藁素坊”というらしく、どちらが先かはわからないが、何かしら山と海のつながりを連想させる。
次が、石牟礼道子の詩「おこぜのうおまろ」。“うおまろ”が、“しこひめ”(醜姫?)のアコウの木に惚れる。古事記の“妻問い”に草木虫魚がたくさん登場するような、神話と自然がないまぜになった壮大で不思議な物語。最後には尺取り虫が九州縦貫道(?)に立ちふさがる。なぜか、浄瑠璃を歌う百姓一揆を連想してしまった。^^;
休憩を挟んで姜信子さんの「満月の夜の狼のように 水俣異聞」。水のアナキズムを水俣の海と山とに展開したような作品。水銀に侵されて山に戻った水達が、「鍛えているから痛くない」と呪文を唱えながら再起の時を待っている。だから、勝てないけど逃げる。そして待つ。
最後は水俣の一人芝居を続けた砂田明の詩「起ちなはれ」。“野生会議99”のシュプレヒコールのように聞こえたのは、少なからず私が違和感を持ったせいかもしれない。石牟礼道子の作品は、いずれも天から降りてきたような言葉が作者の身体を通って結実し、普遍性を得たもののように思えるのだが、砂田明のこの詩は、砂田明個人の身体を離れて、他者の身体ではあまり生き生きと響かないように感じたのだ。どうしてなのか理由はわからないが、“言葉”と“声”の関係について最近とみに考えることが多くなっていて、それは、たとえば姜さんの言葉が、姜さんの肉声によってこそ確かに伝わると感じていることに関係するのだろうか。すいません。語りの素人の感想です。^^;
さて今回は、8月末にあった水俣での“アナーキー”な集まりを経て、その成果の一部を東京でも披露するというもの。久しぶりに石牟礼道子の“じょろり”を中心にしたカタリの数々だった。まず、“しんけいどん”と呼ばれた祖母を投影するような「おえんしゃま」が出てくる『西南役伝説』拾遺から「草文」の一節。手元にテキストが無いので詳しい話は書けないが(そのうち古書で買うつもり)、山の路傍に置かれた円形の“わらすぼ”(草文)が、今は亡き「おえんしゃま」を偲ばせるという話。短い藁の一方を玉留めのように捻って丸くした“わらすぼ”の形は、私が佐賀県に赴任していた頃、郷土料理店などでよく見かけた有明海の魚“ワラスボ”を連想させるものだった。この「ワラスボ」の漢字名が“藁素坊”というらしく、どちらが先かはわからないが、何かしら山と海のつながりを連想させる。
次が、石牟礼道子の詩「おこぜのうおまろ」。“うおまろ”が、“しこひめ”(醜姫?)のアコウの木に惚れる。古事記の“妻問い”に草木虫魚がたくさん登場するような、神話と自然がないまぜになった壮大で不思議な物語。最後には尺取り虫が九州縦貫道(?)に立ちふさがる。なぜか、浄瑠璃を歌う百姓一揆を連想してしまった。^^;
休憩を挟んで姜信子さんの「満月の夜の狼のように 水俣異聞」。水のアナキズムを水俣の海と山とに展開したような作品。水銀に侵されて山に戻った水達が、「鍛えているから痛くない」と呪文を唱えながら再起の時を待っている。だから、勝てないけど逃げる。そして待つ。
最後は水俣の一人芝居を続けた砂田明の詩「起ちなはれ」。“野生会議99”のシュプレヒコールのように聞こえたのは、少なからず私が違和感を持ったせいかもしれない。石牟礼道子の作品は、いずれも天から降りてきたような言葉が作者の身体を通って結実し、普遍性を得たもののように思えるのだが、砂田明のこの詩は、砂田明個人の身体を離れて、他者の身体ではあまり生き生きと響かないように感じたのだ。どうしてなのか理由はわからないが、“言葉”と“声”の関係について最近とみに考えることが多くなっていて、それは、たとえば姜さんの言葉が、姜さんの肉声によってこそ確かに伝わると感じていることに関係するのだろうか。すいません。語りの素人の感想です。^^;
大学祭に見る伝統文化 ― 2019年11月15日 18:44

これまでもマスコミ報道を見聞きする限りは日本文化の貧しき側面しか感じられなかった「桜を見る会」とやらのイベントが、その事業運営にからんで公選法違反か公金私物化かでもめている。選考案や被招待者名簿を、総務省の標準文書保存期間に準拠せず、既に廃棄したと内閣官房は答弁したらしい。嘘まみれの政権運営が蟻の一穴から破綻することを畏れたのか、来年は中止すると主宰者がトンチンカンなことを言い出したそうだ。
公金がらみのことで云えば、国家予算規模からみて極めて少額の“横領”に過ぎないこの案件から独裁政治の問題を提起せざるを得ないという状況が何とも空しい。やはり飲み食いの“カネ”のことでないと話が伝わらないのだろうか。人殺しの道具をたくさん買ったり、2週間限りの浪費運動会のために、“兆”の単位の無駄遣いが行われていることは不問に付すのが、この国の“流儀”というものなのかもしれない。投票せず“隷従”を良しとする国民が、この国の政治を腐敗の極みに落としている現状をただ憂えていても詮ないので、気分転換に投稿することにした。
そろそろ二週間になろうかという先々週の土曜日。元留学生と一緒に日本の大学祭を見学しに行った。渋谷の奥、旧豊多摩郡常磐松近くにある國學院大學である。旧町名に因んで「若木祭」と呼ばれている。神道を中心とした国学の研究で有名な大学ということもあり、大学祭の企画には日本の伝統文化に沿ったものが多い。書道や茶道・華道・香道などの諸道、能・禮法・神楽舞・落語・浪曲などの芸能などが、展示・実演されていた。
なかでは書道部が五室を揃えた大々的な展示を行っていて、その中には指導する先生方の能書良筆も含まれる。カミさんが書道を習っているせいで、門前の小僧ならぬ耳学問で、王羲之やら顔真卿など臨書のお手本になる有名な中国の書人の名前だけは知っていたこともあって、それなりに面白く見ることができた。
そしてもう一つ、事前に目を付けていた実演を聴くことができた。学内サークルでありながら、学外での演奏活動も積極的に行っているという「青葉雅楽会」というグループの定期演奏会である。「越天楽」(えてんらく)などで有名な雅楽は京都や伊勢で本格的なものを聴いたことがあるが、関東では初めてかもしれない。今回の楽器は龍笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)の三管と、太鼓(たいこ)・鞨鼓(かっこ)・鉦鼓(しょうこ)の三鼓という構成。三管は各三名、三鼓は各一名の12人編成で、両絃の楽琵琶と楽箏は省略されているので、本格的な雅楽ではなく、神社などで奉納される略式の演奏になる。しかし、生でじっくり聴く機会は日本人でもなかなか無いので、元留学生には良い経験になっただろう。
学食のカツカレーを食べてから、大嘗祭の企画展を開催している隣接の國學院大學博物館にもちょっと寄ってみた。皇位継承に関する儀礼そのものにはあまり関心は湧かないが、具体的な展示物で概観できるのが良い。何よりここは無料なのだ。
この日は、渋谷の中心に新しいランドマークビルが開業した翌日だったので、待ち合わせ場所を駅南側の渋谷ストリームにするなどして混雑をさけたせいか、道沿いの金王八幡宮あたりを含め、人混みを避けてのんびり歩くことができた。少しは“雅”(みやび)な気分も味わえたせいなのか、あまり疲れも感じなかった。
公金がらみのことで云えば、国家予算規模からみて極めて少額の“横領”に過ぎないこの案件から独裁政治の問題を提起せざるを得ないという状況が何とも空しい。やはり飲み食いの“カネ”のことでないと話が伝わらないのだろうか。人殺しの道具をたくさん買ったり、2週間限りの浪費運動会のために、“兆”の単位の無駄遣いが行われていることは不問に付すのが、この国の“流儀”というものなのかもしれない。投票せず“隷従”を良しとする国民が、この国の政治を腐敗の極みに落としている現状をただ憂えていても詮ないので、気分転換に投稿することにした。
そろそろ二週間になろうかという先々週の土曜日。元留学生と一緒に日本の大学祭を見学しに行った。渋谷の奥、旧豊多摩郡常磐松近くにある國學院大學である。旧町名に因んで「若木祭」と呼ばれている。神道を中心とした国学の研究で有名な大学ということもあり、大学祭の企画には日本の伝統文化に沿ったものが多い。書道や茶道・華道・香道などの諸道、能・禮法・神楽舞・落語・浪曲などの芸能などが、展示・実演されていた。
なかでは書道部が五室を揃えた大々的な展示を行っていて、その中には指導する先生方の能書良筆も含まれる。カミさんが書道を習っているせいで、門前の小僧ならぬ耳学問で、王羲之やら顔真卿など臨書のお手本になる有名な中国の書人の名前だけは知っていたこともあって、それなりに面白く見ることができた。
そしてもう一つ、事前に目を付けていた実演を聴くことができた。学内サークルでありながら、学外での演奏活動も積極的に行っているという「青葉雅楽会」というグループの定期演奏会である。「越天楽」(えてんらく)などで有名な雅楽は京都や伊勢で本格的なものを聴いたことがあるが、関東では初めてかもしれない。今回の楽器は龍笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)の三管と、太鼓(たいこ)・鞨鼓(かっこ)・鉦鼓(しょうこ)の三鼓という構成。三管は各三名、三鼓は各一名の12人編成で、両絃の楽琵琶と楽箏は省略されているので、本格的な雅楽ではなく、神社などで奉納される略式の演奏になる。しかし、生でじっくり聴く機会は日本人でもなかなか無いので、元留学生には良い経験になっただろう。
学食のカツカレーを食べてから、大嘗祭の企画展を開催している隣接の國學院大學博物館にもちょっと寄ってみた。皇位継承に関する儀礼そのものにはあまり関心は湧かないが、具体的な展示物で概観できるのが良い。何よりここは無料なのだ。
この日は、渋谷の中心に新しいランドマークビルが開業した翌日だったので、待ち合わせ場所を駅南側の渋谷ストリームにするなどして混雑をさけたせいか、道沿いの金王八幡宮あたりを含め、人混みを避けてのんびり歩くことができた。少しは“雅”(みやび)な気分も味わえたせいなのか、あまり疲れも感じなかった。
湘南の謡蹟を巡る(虎女) ― 2019年11月16日 18:45

渋谷の大学祭の翌日は湘南に足を運んだ。日本の伝統芸能で数多くの作品にその名を残す『曾我(そが)物語』の舞台を訪ねる「謡蹟めぐり」のバスツアーに参加した。港北区の地区センターが開催した「能」の初心者講座の講師を務めた観世流シテ方(かた)加藤眞悟先生からのお誘いで、縁(ゆかり)のある土地を訪ねながら「曾我物語」が関係する演目にどのような背景があるのかを知るという風雅な小旅行だった。
最初の集合場所は大磯。ここは、曾我兄弟の兄十郎の思い人「虎女」にまつわる様々な旧跡がある。駅から徒歩で10分弱、国道1号線沿いの延台寺にある「虎御石(とらごいし)」には複数の逸話が重なっている。弁財天に子宝を願ったら、ある日枕元に石が現れて女の子を授かったという話。石が、仇討ちの相手工藤祐経に襲われた十郎の身代わりとなってその身を守ったという話。果ては“虎”の念が石と化したという話まである。
“縁”の石は「法虎庵」と称する堂内にて開帳され、ご住職から上記のような説明を受けた。そして、ただの「謡蹟めぐり」でないところは、この場所を始めとし、旅の一行(いっこう)には訪ねる各所で謡(うたい)を奉納するというミッションがあることだ。そもそも、ツアー参加者全員が加藤先生が指導する教室や体験講座の生徒だから、謡本を携えていて、その場で詞章を朗詠する。ちょっと怪しい宗教団体のように見えなくもない。^^;
さて、虎女は成長して“遊女”になるが、これは鎌倉時代初期では伎芸・教養に優れた芸妓のような存在。彼女が化粧で使ったとされる井戸が旧東海道に残っている。宿場の端にあたり、葬送の場つまりあの世との境界とも言える場所で、いわば“あはひ”の存在である。道路の対面には高麗山(こまやま)が見える。その麓にある高来(たかく)神社は神仏分離までは高麗神社、すなわち高句麗から渡来して相模灘からこの地へ住み着いた高麗人の神を祀っていた。曾我兄弟の死後箱根で出家した虎女は、比丘尼となって全国を巡ったり、ここ高麗山の麓に庵を結んだとも言われている。高麗神社の別当寺でもあった慶覚院には虎の念持仏という伝承を持つ地蔵菩薩があり、本堂で謡の奉納を行う。
昼食後は、小田原市にある六本松跡と忍石(しのぶいし)へ向かう。仇討ちの場となった富士の裾野へ出かける前に十郎と虎が最後の逢瀬(おうせ)を過ごしたという。山彦山(旧名)の峠道に六本の松があったことから名付けられた場所は、鎌倉、そして大山や箱根にも通じる交通の要所だったそうで、山道が変形の五叉路になって伸びている。別れを忍んだのであろう忍石へ向かう途中、右手に開けたところがあり、そこで詞章を朗詠。GoogleMapで見ると、もう一つ上にある道からなら大磯方面が遠望できたかもしれない。最後は曾我兄弟と両親(養父と実母)の墓所がある城前寺。そして一帯の鎮守宗(曾)我神社で締めくくり。墓前でも詞章の朗詠があった。
今回、謡蹟を辿りながら物語が生まれる時代背景について、随分と知らないことに気づかされた。たとえば鎌倉という時代が、幕府の周辺にさえ仇討ちに代表されるような主従や郎党間の殺伐とした反目があったこと。また、居住地の周縁に異界とつながる所がたくさんあって人々は畏れながらもその場所を強く意識していたり、故人の思念が残り続けるような空間(“庭”?)だからこそ物語が生みだされたと思われることなど…。現代人からはほとんど失われてしまった“見えない”ものへの強い感受性が、中世の精神的な基層を形作っていたようだ。
人間の大きな振り幅を考えさせるものとして「能」は本当に興味が尽きない芸能だとあらためて感じた。ちなみに、曾我兄弟と虎女に関係する能『伏木曽我』・『虎送』の二曲は、永い間上演されなかった演目を平塚出身の加藤先生が中心となって復曲したものである。
最初の集合場所は大磯。ここは、曾我兄弟の兄十郎の思い人「虎女」にまつわる様々な旧跡がある。駅から徒歩で10分弱、国道1号線沿いの延台寺にある「虎御石(とらごいし)」には複数の逸話が重なっている。弁財天に子宝を願ったら、ある日枕元に石が現れて女の子を授かったという話。石が、仇討ちの相手工藤祐経に襲われた十郎の身代わりとなってその身を守ったという話。果ては“虎”の念が石と化したという話まである。
“縁”の石は「法虎庵」と称する堂内にて開帳され、ご住職から上記のような説明を受けた。そして、ただの「謡蹟めぐり」でないところは、この場所を始めとし、旅の一行(いっこう)には訪ねる各所で謡(うたい)を奉納するというミッションがあることだ。そもそも、ツアー参加者全員が加藤先生が指導する教室や体験講座の生徒だから、謡本を携えていて、その場で詞章を朗詠する。ちょっと怪しい宗教団体のように見えなくもない。^^;
さて、虎女は成長して“遊女”になるが、これは鎌倉時代初期では伎芸・教養に優れた芸妓のような存在。彼女が化粧で使ったとされる井戸が旧東海道に残っている。宿場の端にあたり、葬送の場つまりあの世との境界とも言える場所で、いわば“あはひ”の存在である。道路の対面には高麗山(こまやま)が見える。その麓にある高来(たかく)神社は神仏分離までは高麗神社、すなわち高句麗から渡来して相模灘からこの地へ住み着いた高麗人の神を祀っていた。曾我兄弟の死後箱根で出家した虎女は、比丘尼となって全国を巡ったり、ここ高麗山の麓に庵を結んだとも言われている。高麗神社の別当寺でもあった慶覚院には虎の念持仏という伝承を持つ地蔵菩薩があり、本堂で謡の奉納を行う。
昼食後は、小田原市にある六本松跡と忍石(しのぶいし)へ向かう。仇討ちの場となった富士の裾野へ出かける前に十郎と虎が最後の逢瀬(おうせ)を過ごしたという。山彦山(旧名)の峠道に六本の松があったことから名付けられた場所は、鎌倉、そして大山や箱根にも通じる交通の要所だったそうで、山道が変形の五叉路になって伸びている。別れを忍んだのであろう忍石へ向かう途中、右手に開けたところがあり、そこで詞章を朗詠。GoogleMapで見ると、もう一つ上にある道からなら大磯方面が遠望できたかもしれない。最後は曾我兄弟と両親(養父と実母)の墓所がある城前寺。そして一帯の鎮守宗(曾)我神社で締めくくり。墓前でも詞章の朗詠があった。
今回、謡蹟を辿りながら物語が生まれる時代背景について、随分と知らないことに気づかされた。たとえば鎌倉という時代が、幕府の周辺にさえ仇討ちに代表されるような主従や郎党間の殺伐とした反目があったこと。また、居住地の周縁に異界とつながる所がたくさんあって人々は畏れながらもその場所を強く意識していたり、故人の思念が残り続けるような空間(“庭”?)だからこそ物語が生みだされたと思われることなど…。現代人からはほとんど失われてしまった“見えない”ものへの強い感受性が、中世の精神的な基層を形作っていたようだ。
人間の大きな振り幅を考えさせるものとして「能」は本当に興味が尽きない芸能だとあらためて感じた。ちなみに、曾我兄弟と虎女に関係する能『伏木曽我』・『虎送』の二曲は、永い間上演されなかった演目を平塚出身の加藤先生が中心となって復曲したものである。
高輪げいとえい駅? ― 2019年11月17日 18:47
昨日は、毎回案内をいただいている日本語教師向け勉強会に参加するため横浜駅へ出たので、新駅増設に向けた山手線の運休には全く縁が無かった。それよりも、新設される「高輪ゲートウェイ駅」が、テレビニュースでどのように発話して伝えられたのかの方に日本語ボランティアとしては関心がある。つまり、“高輪ゲートウェイうぇき”や“高輪ゲートエイ駅”など、母音の発音が親和的(?)に変化するのではないかと考えている。日本語を母語としない外国人を前にして日本語テキストの例文を読み上げる際に最も注意するのが母音の発音であるから、上記の例では“たかなわげーとうぇいえき”と正しく発音しなければならない。これは日本人でもなかなか難しいことなのだ。
今からでも遅くない、命名検討で最も支持が高かった「高輪駅」に変えてみたらどうだろうか。このままでは、外国人と待ち合わせを行うかもしれない都心の玄関口で、怪しげな発音が飛び交う光景が現出することになるだろう。
今からでも遅くない、命名検討で最も支持が高かった「高輪駅」に変えてみたらどうだろうか。このままでは、外国人と待ち合わせを行うかもしれない都心の玄関口で、怪しげな発音が飛び交う光景が現出することになるだろう。
能で読む文学 ― 2019年11月19日 18:48

メモが追いつかない。無理に書く必要も無いのだけれど、何かアタマの中に引っかかったままでどうにも落ち着かない。本ならば読み返せば済む場合がほとんどだが「ライブ」ではそうもいかない。体感を言葉に表さずに、そのまま身体に記憶することが難しい質(たち)なのだ。それで足掻(あが)く。
もう先々週のことになるが、東池袋の「あうるすぽっと」という劇場で『能でよむ』というイベントが開かれた。豊島区の中央図書館と併設されたこの劇場は多様な文化事業を行っていることで良く知られているが、今回の企画は「みんなのシリーズ」と題した舞台芸術の“初めの一歩”を踏み出すための公演という位置付けで、安価に提供されている。ポイントは“能で”というところにある。能の鑑賞は敷居が高いが、近代の文学作品を能の謡(うたい)や語り方を交えた朗読で聴いてみようという試みだ。能に関わりがあって劇場にほど近い雑司ヶ谷霊園に眠っている二人の作家、夏目漱石と小泉八雲の作品から合わせて三篇が取り上げられた。漱石が『夢十夜』(第三夜)と『吾輩は猫である』(第二章より“もち”の段)、八雲が『耳なし芳一』である。出演は安田登、玉川奈々福、塩高和之、聞き手が木ノ下裕一というとても豪華な舞台。
『夢十夜』は十篇からなる“夢”の話。冒頭の三話はいずれも「こんな夢を見た」という台詞から始まる。夢という現(うつつ)半ばの“あはひ”とも言える状態を、言葉に落とし込んで表現してみせる技からは、職業作家としての漱石の意気込みが伝わってくる。その一つ「第三夜」は、冒頭の短い詞章で始まり、何やら奇怪な物語が薩摩琵琶の音色と一緒に立ち上がってくる。田圃に吹き渡る風や揺れる森の葉ずれなど、“あはひ”が忍び寄ってくるような響きの後、二股に分かれた辻の先は雨交じりの道行きが三味線の音も加わって目の前に見えるようになる。そして、時に加わる足踏みが“能”を意識させる。
『猫…』は冒頭の一文こそ有名だが、読み切った人は意外に少ない。“もち”の話も確かに一度は読んだはずなのに記憶があいまいだ。それが安田さんの語りにかかると、まるで新しい狂言のようになる。様々な猫の動作、感得する定義、それらが多くの芸能に共通する“型”を踏襲しながら、三味線の節によって新しい“境界芝居”へ生まれ変わったように見える。何より可笑しく面白い。そして『猫…』が、果たして諧謔の粋であったことを改めて証明して見せている。
最後の『耳なし芳一』では、『平家物語』に材を採った能の謡がふんだんに入り、奈々福さんの語り、塩高さんの薩摩琵琶と相俟って物語がみるみるうちに起ち上がっていく様子を体験した。能は歴史上初めて古典を立体化した演劇だというが、さしづめ、現代日本語を形作った明治の作家たちの世界がステージ上で立体化するのを見るような気分だった。
実は、この公演に先立って、関連する二つの講座も聴講した。一つは「能でよむ、ワキの語りを現代の文章に応用して語る方法」という安田さんの話。様々な語りを創作する際に、能の謡をメソッドとして使う理由を解説している。詳しくは10/15の記事に書いた。もう一つが公演の当日午前中に開かれた文学講座、早稲田大学演劇博物館の後藤隆基氏の講義である。『夢十夜』執筆の契機にもなった漱石の謡稽古は安田さんと同じ下掛り宝生流の十世宗家に習っている。当時の様子を伝える高浜虚子や宝生新の文章や、「第三夜」新聞初出時の写真、その後の評論・研究など多岐にわたるテキストの精査から漱石の『夢十夜』に迫った話だった。
もう先々週のことになるが、東池袋の「あうるすぽっと」という劇場で『能でよむ』というイベントが開かれた。豊島区の中央図書館と併設されたこの劇場は多様な文化事業を行っていることで良く知られているが、今回の企画は「みんなのシリーズ」と題した舞台芸術の“初めの一歩”を踏み出すための公演という位置付けで、安価に提供されている。ポイントは“能で”というところにある。能の鑑賞は敷居が高いが、近代の文学作品を能の謡(うたい)や語り方を交えた朗読で聴いてみようという試みだ。能に関わりがあって劇場にほど近い雑司ヶ谷霊園に眠っている二人の作家、夏目漱石と小泉八雲の作品から合わせて三篇が取り上げられた。漱石が『夢十夜』(第三夜)と『吾輩は猫である』(第二章より“もち”の段)、八雲が『耳なし芳一』である。出演は安田登、玉川奈々福、塩高和之、聞き手が木ノ下裕一というとても豪華な舞台。
『夢十夜』は十篇からなる“夢”の話。冒頭の三話はいずれも「こんな夢を見た」という台詞から始まる。夢という現(うつつ)半ばの“あはひ”とも言える状態を、言葉に落とし込んで表現してみせる技からは、職業作家としての漱石の意気込みが伝わってくる。その一つ「第三夜」は、冒頭の短い詞章で始まり、何やら奇怪な物語が薩摩琵琶の音色と一緒に立ち上がってくる。田圃に吹き渡る風や揺れる森の葉ずれなど、“あはひ”が忍び寄ってくるような響きの後、二股に分かれた辻の先は雨交じりの道行きが三味線の音も加わって目の前に見えるようになる。そして、時に加わる足踏みが“能”を意識させる。
『猫…』は冒頭の一文こそ有名だが、読み切った人は意外に少ない。“もち”の話も確かに一度は読んだはずなのに記憶があいまいだ。それが安田さんの語りにかかると、まるで新しい狂言のようになる。様々な猫の動作、感得する定義、それらが多くの芸能に共通する“型”を踏襲しながら、三味線の節によって新しい“境界芝居”へ生まれ変わったように見える。何より可笑しく面白い。そして『猫…』が、果たして諧謔の粋であったことを改めて証明して見せている。
最後の『耳なし芳一』では、『平家物語』に材を採った能の謡がふんだんに入り、奈々福さんの語り、塩高さんの薩摩琵琶と相俟って物語がみるみるうちに起ち上がっていく様子を体験した。能は歴史上初めて古典を立体化した演劇だというが、さしづめ、現代日本語を形作った明治の作家たちの世界がステージ上で立体化するのを見るような気分だった。
実は、この公演に先立って、関連する二つの講座も聴講した。一つは「能でよむ、ワキの語りを現代の文章に応用して語る方法」という安田さんの話。様々な語りを創作する際に、能の謡をメソッドとして使う理由を解説している。詳しくは10/15の記事に書いた。もう一つが公演の当日午前中に開かれた文学講座、早稲田大学演劇博物館の後藤隆基氏の講義である。『夢十夜』執筆の契機にもなった漱石の謡稽古は安田さんと同じ下掛り宝生流の十世宗家に習っている。当時の様子を伝える高浜虚子や宝生新の文章や、「第三夜」新聞初出時の写真、その後の評論・研究など多岐にわたるテキストの精査から漱石の『夢十夜』に迫った話だった。