諧謔が表す精神性 ― 2025年12月18日 18:09
大河ドラマ「べらぼう」が終わりました。江戸の出版文化を牽引した一市井人の生涯と、それを取り巻く創作者たち、陰で支えた職人の世界や、吉原遊廓との関わりなどが、一年を通して描かれ続けたことに大いなる賛意を覚えます。今朝の東京新聞芸能欄によれば、大河ドラマの歴代視聴率で二番目に低かったとのことですが、たとえば、唐来参和などという人名に触れることができたのは、小沢昭一さんの一人芝居以来のことです。数々の狂歌の紹介も大変面白く聴くことができましたし、社会批評的な黄表紙の隆盛は江戸庶民の精神性の高さを感じさせるものでもあります。一方で、そうした魅力あふれた題材に多くの関心が集まらないことこそが、なんともつまらない現在を象徴しているのかもしれません。ちなみに、私個人のことで言えば、三番目に低かった「光る君へ」を通じて和歌への関心がさらに高まったことも事実です。
「日本人ファースト」などという愚劣なメッセージの陰で、これら二作品が残したことは、特徴ある日本の習合文化の一端を日本人自身に再確認してもらうようなものでもあったのでしょう。それは、「べらぼうめ!」と快哉を叫ぶようにです。
「日本人ファースト」などという愚劣なメッセージの陰で、これら二作品が残したことは、特徴ある日本の習合文化の一端を日本人自身に再確認してもらうようなものでもあったのでしょう。それは、「べらぼうめ!」と快哉を叫ぶようにです。
関心を持ち続ける人の姿 ― 2025年12月07日 18:05
一昨日、BSで放送された「妻夫木聡/沖縄/戦後80年」をカミさんが録画していました。映画『宝島』の主演妻夫木聡は『涙(なだ)そうそう』以来、沖縄への強い関心を持ち続けていたようで、旧知の知り合いに再会する傍ら、佐喜眞美術館やクマヤーガマ、砂辺書架など沖縄の歴史を語り伝える多くの場所を訪ね回ります。泣く芝居が印象的な俳優としても知られている彼は、元々の性格が“感激屋”でもあったことが良くわかりました。9月に総合テレビで放映されたことは全く知りませんでしたが、こういう番組こそ繰り返し再放送してもらいたいと思います。なお、制作は沖縄局でした。
付けっぱなしメディアからの逃避 ― 2025年10月05日 17:47
古稀を迎えました。この国の行く末が案じられますが、少なくとも後期高齢者になるぐらいまでは、留学生を含む外国人への日本語学習支援を細々と続けていきたいと思います。
一方で、添削“例”を作って彼女らの文章に手を入れるということはめっきり減りました。生成AIを活用すれば、文法的に正しいごく普通の日本語を書くための練習はほとんど不要となっているからです。旧Twitterなどに書き散らされる膨大な駄文に比べれば、はるかに適切な日本語を外国人が表現できる時代でもあります。比較的最近の話ですが、自動制御技術に関する専門的な文章をどのようにしたら“日本語らしく論理表現”できるのかを教えて欲しいというリクエストが理工系の留学生からありました。4回ほどのレッスンを集中的に行った後しばらくして、希望していた日本企業に無事内定したという吉報が届きました。
人の文章を添削して、一つの“例”として示すという作業はそれなりに頭を使いますし、作文の感覚を持ち続けるのも大変です。その練習のためにも、こうして、この欄に短文を書き続けてきたわけですが、その必要性も減りつつあります。アルゴリズムに催促されて10年も前の自分の文章を読む機会があると、当時は今よりもう少し深く考えていたように感じる事が多くなりました。
一つには、情報の津波のようなネット世界の惨状があるのかもしれません。過日書いたように、自分にとって有意な情報だけを知りたいのに、SNSが勝手な“関連”アルゴリズムで並べるタイムラインを続けて読まされるのは苦痛です。精神集中も思考も疎かになります。私自身はSNSの勧める情報へほとんど関心を向けないのですが、もしかしたら、誰かの広告だけにとどまらず、リクエストに応えた“友達”の関心領域までもが混交することもあるのでしょうか。そうであれば、それは“付けっぱなしのテレビ”と何がどう違うのでしょう。私は戦後世代のテレビっ子ですが、父親の観る番組が優先される家庭にあって、時に一人で図鑑や本を眺め、長じてはラジオを聴く時間を持つことができました。今考えると、それはとても貴重なことだったのかもしれません。
一方で、添削“例”を作って彼女らの文章に手を入れるということはめっきり減りました。生成AIを活用すれば、文法的に正しいごく普通の日本語を書くための練習はほとんど不要となっているからです。旧Twitterなどに書き散らされる膨大な駄文に比べれば、はるかに適切な日本語を外国人が表現できる時代でもあります。比較的最近の話ですが、自動制御技術に関する専門的な文章をどのようにしたら“日本語らしく論理表現”できるのかを教えて欲しいというリクエストが理工系の留学生からありました。4回ほどのレッスンを集中的に行った後しばらくして、希望していた日本企業に無事内定したという吉報が届きました。
人の文章を添削して、一つの“例”として示すという作業はそれなりに頭を使いますし、作文の感覚を持ち続けるのも大変です。その練習のためにも、こうして、この欄に短文を書き続けてきたわけですが、その必要性も減りつつあります。アルゴリズムに催促されて10年も前の自分の文章を読む機会があると、当時は今よりもう少し深く考えていたように感じる事が多くなりました。
一つには、情報の津波のようなネット世界の惨状があるのかもしれません。過日書いたように、自分にとって有意な情報だけを知りたいのに、SNSが勝手な“関連”アルゴリズムで並べるタイムラインを続けて読まされるのは苦痛です。精神集中も思考も疎かになります。私自身はSNSの勧める情報へほとんど関心を向けないのですが、もしかしたら、誰かの広告だけにとどまらず、リクエストに応えた“友達”の関心領域までもが混交することもあるのでしょうか。そうであれば、それは“付けっぱなしのテレビ”と何がどう違うのでしょう。私は戦後世代のテレビっ子ですが、父親の観る番組が優先される家庭にあって、時に一人で図鑑や本を眺め、長じてはラジオを聴く時間を持つことができました。今考えると、それはとても貴重なことだったのかもしれません。
ブラウン管の向こう側にある虚業 ― 2025年09月10日 17:40
ブルーハーツの『青空』は「ブラウン管の向こう側」という歌詞から始まります。「ドラマ人間模様」シリーズが終了して、単発ドラマ専任となった頃に初めて聴いた時は、この言葉に深く共感したものです。
それは、「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というお決まりのフレーズが、自らの虚業を覆い隠す隠れ蓑ではなく、それだからこそ信頼に基づく“リアリティ”を感じさせるフィクションを創り出すことが大切なのだと考えていたからです。
報道セクションがよく言う、「不偏不党」や「公平・公正」などという“手垢にまみれた言葉”ではなく、「ブラウン管の向こう側」にある現実にどのように対峙するのかという職業意識とも言えるでしょうか。
テレビが虚業であるのと同様、液晶モニターのネット動画も虚業に過ぎません。「マス“ゴミ”」というなら、数十万回も再生される侮蔑や嘘にも当然あてはまります。だからこそ、シンプルな言葉を連ねた中に、人間社会への不信を暗示または隠喩するような歌ばかりを好んで聴いてきたような気もします。
たとえばビートルズ『HELP!』に始まり、S&G『The Sound of Silence』やジョン・レノン『Happy Xmas(War is over)』、Queenの『UnderPressure』、井上陽水『最後のニュース』、忌野清志郎『JUMP』などなどです。
今、そのような歌がどこかにあるでしょうか。
それは、「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というお決まりのフレーズが、自らの虚業を覆い隠す隠れ蓑ではなく、それだからこそ信頼に基づく“リアリティ”を感じさせるフィクションを創り出すことが大切なのだと考えていたからです。
報道セクションがよく言う、「不偏不党」や「公平・公正」などという“手垢にまみれた言葉”ではなく、「ブラウン管の向こう側」にある現実にどのように対峙するのかという職業意識とも言えるでしょうか。
テレビが虚業であるのと同様、液晶モニターのネット動画も虚業に過ぎません。「マス“ゴミ”」というなら、数十万回も再生される侮蔑や嘘にも当然あてはまります。だからこそ、シンプルな言葉を連ねた中に、人間社会への不信を暗示または隠喩するような歌ばかりを好んで聴いてきたような気もします。
たとえばビートルズ『HELP!』に始まり、S&G『The Sound of Silence』やジョン・レノン『Happy Xmas(War is over)』、Queenの『UnderPressure』、井上陽水『最後のニュース』、忌野清志郎『JUMP』などなどです。
今、そのような歌がどこかにあるでしょうか。
情報の離散化による思考欠如 ― 2025年08月06日 17:27
過日、この欄に書いた文章の中で“情報の離散化”という表現を使いましたが、あらためて考えてみると、デジタル化とはアナログ情報を離散・微分化することそのものです。コンピュータで処理するために標本・量子・符号化された情報は、それまでの連続性を断たれた形で処理・記録され、ときに膨大なデータ量を圧縮するためにDCTなどのさらなる離散手法が施されます。
しかし、このデジタル化による情報の“離散”がもたらしたものは、あらゆる情報を処理できる「合理性」と引き換えに、脳の記憶による「連続性」を失うことにつながったと思います。たとえて言えば、脳細胞のシナプスが次々と切断され、時空を超えてつながる思考回路が作れなくなったようなものです。数年来の生成AIの急速な展開は、失われた思考回路を「予測」で擬似的・類似的につなぐ大規模なデジタル化の様相とは言えないでしょうか。
小さい画面の中に、膨大なデータを持つデジタル情報が短時間で次々に現れ消える状態は、シナプスが減少した脳には大きな負荷となります。そこでは、既にコリジョンやコンフリクトが起きているはずです。さらに、体感の一部に過ぎない視覚ばかりに、再生速度の上がった大量の画像情報が流れ込んできたらどうなるでしょうか。おそらくそれは、思考処理できないまま捨てられ、情動にさえも育たない感覚神経の反応程度に収まるような気がします。そして、そうした積み重ねは、いずれ人間からモノを考える能力を失わせ、AIに左右される末路へとつながるかもしれません。
ところで、最近は少し関心が薄れているのですが、以前に留学生を通じて知った短編アニメーションの世界に「砂絵」という技法がありました。透過光が通る透明な板の上に置かれた砂(ときに多色)を様々に手で動かしながら次々にシーンを生み出す表現は、いかにも“アニマ”にふさわしく、その“連続性”こそが記憶を呼び覚まして脳を活性化する力になっているように感じます。わずかな時間で消えていくものであるにもかかわらずです。それは、集合・積分化する情報のようにも思えます。
乱読ばかりで、およそ関連の無い読書を続けていても、ときにデジャブのように浮かび上がってくる思念には何かが繋がって感じられることが多くあります。もしかしたら、それが人間の意識というものの源なのかもしれません。
しかし、このデジタル化による情報の“離散”がもたらしたものは、あらゆる情報を処理できる「合理性」と引き換えに、脳の記憶による「連続性」を失うことにつながったと思います。たとえて言えば、脳細胞のシナプスが次々と切断され、時空を超えてつながる思考回路が作れなくなったようなものです。数年来の生成AIの急速な展開は、失われた思考回路を「予測」で擬似的・類似的につなぐ大規模なデジタル化の様相とは言えないでしょうか。
小さい画面の中に、膨大なデータを持つデジタル情報が短時間で次々に現れ消える状態は、シナプスが減少した脳には大きな負荷となります。そこでは、既にコリジョンやコンフリクトが起きているはずです。さらに、体感の一部に過ぎない視覚ばかりに、再生速度の上がった大量の画像情報が流れ込んできたらどうなるでしょうか。おそらくそれは、思考処理できないまま捨てられ、情動にさえも育たない感覚神経の反応程度に収まるような気がします。そして、そうした積み重ねは、いずれ人間からモノを考える能力を失わせ、AIに左右される末路へとつながるかもしれません。
ところで、最近は少し関心が薄れているのですが、以前に留学生を通じて知った短編アニメーションの世界に「砂絵」という技法がありました。透過光が通る透明な板の上に置かれた砂(ときに多色)を様々に手で動かしながら次々にシーンを生み出す表現は、いかにも“アニマ”にふさわしく、その“連続性”こそが記憶を呼び覚まして脳を活性化する力になっているように感じます。わずかな時間で消えていくものであるにもかかわらずです。それは、集合・積分化する情報のようにも思えます。
乱読ばかりで、およそ関連の無い読書を続けていても、ときにデジャブのように浮かび上がってくる思念には何かが繋がって感じられることが多くあります。もしかしたら、それが人間の意識というものの源なのかもしれません。