身の丈の生業とは ― 2016年11月03日 21:39
例の過労死のことが何となく気に掛かっていて、いろいろ考えているうちに自分なりの答えのようなものが頭に浮かびました。
それは、“生業”(なりわい)に関することです。
私は放送局というサービス産業に勤めていた頃、自分の仕事は何も生み出さない“虚業”だと考えることが多くありました。もちろん、放送番組を磁気テープに記録する具体的な仕事の有り様そのものは見えるのですが、そこにある“無形”のもの、あるいは“情報”と言って良いかもしれませんが、“かたち”のないものしか産み出さない仕事に何となく引け目のようなものを感じていました。ですから、お百姓や職人さんなど“かたちある”ものを産み出す人への尊敬がずっとあったと思います。
父は理容師でしたので個人でサービス業を営んでいましたが、少なくとも髪の毛という“かたちある”ものには接していたので、二つの生業の中間ぐらいだったでしょうか。
この道筋を頼りに考えたみたことは、“もの”を作り、手を加え、運び、使うという、“かたちある”ものに関わる仕事は、それを最終的に消費する“量”が限られているということです。“かたちある”商品経済は、仮にそれが大量消費されるようなものであっても必ず限りはあります。ましてや、なまものだったり、生きているものであれば、おのずから腐り、殺されたりもします。
ところが、この“かたちある”ものへの付加価値が経済の中心を占めるようになって、しまいには“かたち”の無い付加価値だけが一人歩きするようになりました。
付加価値であれば、消費に制限は無い。いくらでも新しいモノを作り、伝え、消費することができます。ユビキタスを目指すかのような情報消費社会で、それを望めばいくらでも“違ったモノ”、“変わったモノ”を選ぶことができます。たとえば、本があまり読まれなくなったと言われながら、実際は毎日のように書店に新刊が並びます。
もちろん、それも需要あってのことですが…。
昔から、本以外はあまり物を買わないこともあって、商品広告を見聞きしても、ほとんど関心が向かないところはありましたが、テレビを観なくなり、身の回りからしか関心を広げていかないでいるうちに、世の中に溢れる情報の洪水に一種の恐怖心さえ抱くようになりました。
今さら“かたちある”ものを生業にはできませんが、“身の丈”にあった付加価値というものを考え直しても良いのではないかと思います。おかしなもので、そのような意識で情報を遮断していると、何故か自然と向こうから私を訪ねてやってくることが最近とても多くなりました。これは、シナプスの成せる技なのかと疑い始めています。