閉塞した世の中から漏れる声2016年12月03日 22:49


 どなたからの情報だったかもうすっかり忘れてしまったが、WebブラウザのFacebookの右のタブに案内ページが開いていたので、ここで知ったものだったのだろう。ありがとうございました。

 駿河台にある明治大学アカデミーホールで、「声の氾濫」というシンポジウムを聴講してきた。シンポジウムと言ってもその過半は、“声と音”と題した合計2時間を超える4組のパフォーマンスだった。“声”すなわち作家の朗読に“音”すなわち音楽家の演奏を組み合わせたもので、“声”の意味を問い、その復権を考えるような催しだった。

 朗読は、文学者としての表現の拡張行為とも言えるのだろうが、同時に閉塞した時代に挙げる“声”でもあったような気がする。パフォーマンスの後に開かれた議論の中で、そうした認識が確かに共有されていたように思う。

 主催者は、マスメディアでは表現できない埋もれそうな声が、あちらこちらで吹き出してくることを望んでいるのかもしれない。それぞれの現場でそうした声を挙げることを…。

 帰宅後、新聞の夕刊文化欄を見たら、今日出演した作家の一人木村友祐さんと関係の深い白崎由美さんという歌手のことが、そして、記事のすぐ横には、岩波ブックセンターが東京地裁から破産開始決定を受けたという話も載っていた。

プロパガンダの優しい装い2016年12月09日 21:21


 12月8日と言えば太平洋戦争開戦の日だ。後年、嘘にまみれる大本営発表のラジオ放送の中で、ほぼ事実と大差ないものとして繰り返し使われてきたのが、この開戦時の臨時ニュースだ。信時潔作曲の「海ゆかば」で始まり「軍艦マーチ」で終わる放送は、真珠湾だけにおさまらず、上海・シンガポールほか太平洋各地での戦果を伝えている。朝鮮半島の植民地化、満州での傀儡政権樹立、中国への侵攻の果てに始まったこの戦争で、さらなる膨大な数の死者を生み出した。その出発点にあたる。

 昨日、東京新聞の1面で断続的に続いてる「戦える国に変質 言わねばならないこと」というコラムに、近現代史家の辻田真佐憲氏の寄稿が載った。マスコミのチェック機能が麻痺し、批判しにくい風潮の中で起きた原発事故にも通じる問題として、“大本営発表”が70年近く経っても教訓として生かされないままなのかと…。そして、政治と報道の一体化を防ぐためにも歴史の暗部を共有したいと述べていた。

 実は、その辻田氏と、戦前のプロパガンダについて造詣の深い早川タダノリ氏の二人による「愛国プロパガンダ大博覧会」という催しが、昨日新宿で開かれた。観客はわずかに20名弱だったがとても面白いイベントで、当初2時間を予定していたものが30分も延びて、終わったのは22時近くだった。満州事変、日中戦争、太平洋戦争と三つに区分した時代のプロパガンダの実例が、音楽(辻田氏)とビジュアル(早川氏)でそれぞれ詳しく紹介された。

 それは、今から見れば荒唐無稽と思われるものがほとんどなのだが、歌謡曲や雑誌など、いずれも日常生活の中に深く入り込む文化的な装いをこらしている。しかも、戦争末期の国家統制が一段と強くなった時期でさえも、政権の意向に迎合する以上に、それを発行することで利益をあげる情報消費財として作られた、“楽しい”プロパガンダだったことが良く分かる。

 今で言えば、それはテレビであり、ネットやスマホアプリに相当するだろう。

 もちろん、ねじれた消費欲を煽る一方で、国による統制は着実に広がった。最近似たような言葉もよく聞く“国民精神総動員”など、国による国民の管理が戦争協力への第一歩となった。

 ここでもう一つ昨日の話だが、総務省のホームページに次のような報道資料が載った。

 「行政機関等の保有する個人情報の適正かつ効果的な活用による新たな産業の創出並びに活力ある経済社会及び豊かな国民生活の実現に資するための関係法律の整備に関する法律の施行に伴う関係政令の整備及び経過措置に関する政令案に関する意見募集」

 いわば、新しい国による管理の始まりを示すものだと私には思えるのだが、これが、いつかと同じことへの第一歩にならないよう祈るばかりだ。

島クトゥバの中の標準語は何を意味したか?2016年12月11日 00:04


 神奈川大学で沖縄の戦後に関するシンポジウムがあったので聴きに行った。

 「島クトゥバ(沖縄言葉)で語る戦世」という記録を撮り続けている写真家の比嘉豊光さんの講演に先立ち、その1000人を超える膨大な体験記録から5名のウチナンチュが語る映像を観た。

 「沖縄の社会は字(あざ:かつての村)ごとに言葉の語彙やアクセントも違い、話す言葉で字の違いがわかったというほどそれぞれが閉鎖された社会だった」ようで、5人の体験者の言葉はそのニュアンスの違いを良く表していた。

 ところが、島クトゥバを日本語に翻訳した字幕の中に、そこだけは既知の意味を含めて、たやすく聞き取ることができる一群の言葉が含まれていた。

 それは、“公”の言葉だった。ボークーゴー、カンポウシャゲキなどの軍事用語。そうしたものだけが、はっきりと分かる言葉として際立って聞こえる。“個”を一様に従わせる“公”の言葉を、彼らは島クトゥバの中に、あたかも異物が挟まるように話していた。

 それを知ったとき、地上戦のさなかから、戦後の収容所生活まで、それがどのようなものであったかについて、今少し新たな想像ができるようになった気がした。

 そして同時に、日本語の中へ異物のようなカタカナ語を使っている自分自身の話し方へと連想は広がった。それも含めて私は戦後の日本人なのだろう。

 ところで、今日は「変哲忌」なので一句。

  “ たそがれの冬空覆う流れ雲 ”

落ちるべくして落つ2016年12月14日 11:17


 あのミサゴを騙る不細工な飛行物がまた落ちたらしい。そもそも特殊な構造で、民間転用しないという条件でアメリカ連邦航空局から“耐空証明”の認定を受けておらず、航空機としての安全性の技術基準の埒外にある。落ちて当然の代物だ。何度でも落ちるだろう。

 そして、日本政府が金を出して作ろうとしている辺野古基地にはいずれ大津波が来るだろう。被災の歴史を顧みることができないものには決してわからないことがある。

ヤマトとイシガキに流れる深い川?2016年12月20日 23:59


 転勤で佐賀に赴任していた時、玄界灘に面した唐津市に変わった名前の和菓子があった。その名を“けえらん”と云う。何も知らないで初めて聞いたとき、瞬間的に頭に浮かんだのは“鶏卵”の二文字だった。鶏の卵を使った菓子は日本全国に数多くある。“東京たまご”などは、その形で出張みやげとして名を轟かせている。しかし、唐津の菓子の実物は、うるち米を蒸した皮で餡を包んだだけの至ってシンプルな和菓子だった。添加物を入れず日持ちがしないので、車で遊びに行ったときだけ、出来たてを何度か食べたことがある。

 さて、その“けえらん”という名前の由来なのだが、元祖と名乗る「伊東けえらん」の説明によれば、400年以上前の秀吉の朝鮮出兵に遡る。渡航前に行われた諏訪神社での戦勝祈願の折に地元民によって献上された菓子とのこと。その時秀吉は「これを食べたならば勝つまで帰らん」と語ったのだという。この「帰らん」が訛って「けえらん」となったとされる。

 いつの時代も、権力者は勝手なもの言いをするものだと思うところではあるが、今は、その菓子とは全く別の“けえらん”について書く。

 実は、沖縄の石垣島にも「けえらん」という言葉がある。正しくは「けえらんねえら」で“みなさん”を意味する。たとえば「けえらんねえら 唄いじょうら」で“みなさんうたいましょう”となる。同じ「けえらん」でも、楽しいことを共に始めようとする人々への掛け声というところが良い。

 この「けえらんねえら 唄いじょうら!」という名前で、先日イベントが開かれた。場所は東中野のSpace cafeポレポレ座。ドキュメンタリー映画の単館上映で有名な「ポレポレ東中野」の地上階にあるカフェだ。

 辺野古、そして高江の米軍基地建設が大きな問題となっているが、八重山諸島にも陸上自衛隊の配備が進んでいる。軍事基地による環境汚染、特に水への影響が懸念される。島々の風土の源ともいえる水を守り、悠久の「いのち」を声で結びつけようという趣旨で、八重山の唄者(うたしゃ)に応えた奄美・水俣・済州島・東京のそれぞれから朗読・音楽そして唄が集まった。

 それぞれに一線の人々ではあるが、その上手ということ以上に強い想いがこもったライブだった。それは、今がこの国の“分水嶺”であることを、その場を共有した人々が同様に感じているからだろう。狂った“汚染水”を止めることができなければ、70年もかけて積み上げてきた私たちのあるべき暮らしが押し流される。この1ヶ月、急激な奔流があふれる中で、かろうじて残っている澪標(みおつくし)を見たような思いで会場を後にした。

 来年はいったいどうなるのだろうか。