「帝国日本」の残影2019年08月19日 16:52

かれこれ5年ぐらい前に「海外神社」のことを知って観に行ったのがきっかけで、神奈川大学から今も定期的に公開研究会や展示会のお知らせが届く。「海外神社」を狭義でいえば、明治以降の富国強兵の時代に“大日本帝国”が侵攻し領土とした土地に建てられた神社である。もちろん、日本の施政権が及ばない地域に移民が建てた神社や、北海道・沖縄のように近代以後内地(ないち)に建ったものもあるが、同大の非文字資料研究センターでは、前者つまり狭義の「海外神社」の跡地と景観の変容について共同研究を続けている。
 「海外神社」には、国内の神社政策に基づいて現地政府や軍によって建てられた官幣大社に属するもの、居留民が奉賛して建てたもの、また後に奉賛神社へ社格が与えられ官幣社や国幣社に列したものなど、規模に様々な違いがある。本殿や社務所など多くの施設を伴うものから、鳥居と遙拝所だけの小さなものも含め、2004年現在の調査で判明した総数は1750社を超える。中でも日中戦争前から植民地だった台湾と朝鮮半島に1930年代後半から激増している。最近の研究では、そこに含まれない未公認、すなわち一般公衆の参拝が行われず、申請や公認の外にあった特定集団向け神社の存在にも少しずつ調査が進んでいる。
 今回、横浜市民ギャラリーで開かれた『「帝国日本」の残影』展では、こうした「海外神社」の跡地の景観がどのように変わったのかを大判カメラに収め続けてきた稲宮康人氏の写真が並べられた。その中には、台中神社の倒れた鳥居が、そのまま公園の砂場に残っている上で子どもたちが遊んでいる風景があって、海外での初めての撮影で遭遇した一瞬だったと稲宮さんがギャラリートークで語っていた。
 行政文書のように燃やされることなく物理的に残っている風景の中に、歴史の記憶が3/4世紀経った今もあるということが、私たち日本人とアジアの人々の間にあった過去をあらためて思い起こすことにつながるのではないか。真夏の盛りのわずかな期間だけ、駅から離れた丘の上で開かれた催しに過ぎないが、とても印象深かった。また、その日、横浜市民ギャラリーの2,3階では台中市大墩美展文化交流展が開かれていて芸術文化を通した国際交流が行われていたことを付記しておく。

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