宗教体験としての芸能 ― 2019年04月28日 12:23

先々週の金曜日、久方ぶりに早く起きて吉祥寺へ向かった。平田オリザの新作を観に来て以来だろう。中央線沿線としては比較的行きやすい街ではあるが、特に用がなければ訪ねたりはしない。ただ、駅周辺をちょっと歩くだけでも、文化的な雰囲気があって、なおかつ安価な店も多く、住みたい街No.1と言われるだけのことはある。昨年12月、駅前のパルコの地下に単館系ミニシアターとして「アップリンク吉祥寺」という映画館ができた。天井張りしていないロフトのような館内ロビーの周りに五つの小さなスクリーンが配置されている。今回は一番大きな98席の部屋で観た。
映画は『最後の語り部たち チベットケサル大王伝』というドキュメンタリーである。中国の西域、チベット高原に広がる青海省が舞台。東アジアの三大河川の源流にあたるこの地域に古代から流布し今も残る英雄叙事詩がある。伝説の主人公「ケサル大王」の物語だ。文字で残ったものではない。代々口伝で語り伝えられたものもあるが、ある日“神授”と呼ばれる神秘体験を得て文盲のまま突然に膨大な叙事詩を唄い始める人たちが出現する。天上から選ばれし“わざおぎ”ともいえるのだろうか。
その語りは、時に節も混じるが、多くは早口で延々と続く一人芝居のようである。高原を吹く風に乗せるように言葉をつむぐという風情がある。しかも、それぞれの個性も強い。語るきっかけそのものが一種の宗教体験に近いこともあり、語り部たちは国によって画一的に保護されることへの懸念もあるようで、この伝統が今後いつまで続くかはわからない。
映画上映後、監督の大谷寿一氏と渡部八太夫さん・姜信子さんによる対談があった。草原の共同の記憶の話から、語り芸の始まりのカタチまで、いくつかのトピックについて話が広がった。一度消えてしまった“語り”としての「説経祭文」を蘇(よみがえ)らそうとする八太夫さんが、ゲストトークの最後に「デロレン祭文」を実演した。三味線を弾きながら“正本”を読むのではなく、錫杖と法螺貝のみで語る山伏のスタイルである。会場に響く「デロレン、デロレン」が、最後は餓鬼阿弥となった小栗が引く車のきしみ音にも聞こえ、“道々の芸”らしい語りを聴くことができた。
映画は『最後の語り部たち チベットケサル大王伝』というドキュメンタリーである。中国の西域、チベット高原に広がる青海省が舞台。東アジアの三大河川の源流にあたるこの地域に古代から流布し今も残る英雄叙事詩がある。伝説の主人公「ケサル大王」の物語だ。文字で残ったものではない。代々口伝で語り伝えられたものもあるが、ある日“神授”と呼ばれる神秘体験を得て文盲のまま突然に膨大な叙事詩を唄い始める人たちが出現する。天上から選ばれし“わざおぎ”ともいえるのだろうか。
その語りは、時に節も混じるが、多くは早口で延々と続く一人芝居のようである。高原を吹く風に乗せるように言葉をつむぐという風情がある。しかも、それぞれの個性も強い。語るきっかけそのものが一種の宗教体験に近いこともあり、語り部たちは国によって画一的に保護されることへの懸念もあるようで、この伝統が今後いつまで続くかはわからない。
映画上映後、監督の大谷寿一氏と渡部八太夫さん・姜信子さんによる対談があった。草原の共同の記憶の話から、語り芸の始まりのカタチまで、いくつかのトピックについて話が広がった。一度消えてしまった“語り”としての「説経祭文」を蘇(よみがえ)らそうとする八太夫さんが、ゲストトークの最後に「デロレン祭文」を実演した。三味線を弾きながら“正本”を読むのではなく、錫杖と法螺貝のみで語る山伏のスタイルである。会場に響く「デロレン、デロレン」が、最後は餓鬼阿弥となった小栗が引く車のきしみ音にも聞こえ、“道々の芸”らしい語りを聴くことができた。
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