本をつくり、届ける ― 2025年11月29日 18:04
紅葉坂上の県立図書館へ行くのは6年ぶりです。前回は「万葉集のことば 現代のことば」という飯間浩明さんの講演を聴きました。今回は「本をつくる 本を届ける」という演題で、三輪舎代表の中岡さんが話します。
前段に、戸塚にある明学大横浜キャンパスの図書館で事業運営をサポートする学生が活動報告を行いましたが、本を読まなくなった学生に向け、有志が様々な企画を立てては本の魅力を紹介するという、いかにも最近の大学事情を表した発表でした。図書館司書と連携しながらの活動ですが、長期間にわたってPRできるスペースがあることそのものが、大学キャンパスならではのことかとも思います。留学生は縦書きが苦手というのはうなづけます。
さて、中岡さんの話は、過去に何度か聴いてはいるのですが、今回それらをまとめて聴くことができたのが何よりです。本を“売る”ための“最先端”の売り場で感じた様々な本との出会いから生まれた「いつか本屋を始めたい」というワクワクする想いは、ミシマ社や夏葉社など“まっとう”な独立“系”出版社の本などとの出会いもあって、いつのまにか「出版」へと変わっていったようです。
出版の多くは外注。著者から校正・装丁・印刷・製本まで多くの人との共同作業になりますが、その中心というか、それらをつなぐ編集・発行作業の生産手段そのものが個人でできるまで縮小してきたことが大きな変化を促して、ひとり出版社を生み出しました。ただ、そこには「くふう」と「くろう」が必要です。
一方、「本屋Bar」からクラウドファンディングを経て再建途中だった石堂書店の2階に事務所を構えたものの、並行して進む「こいしどう書店」の“理想”に危惧を覚え、書店経営の実務にも関わるようになります。そこから生まれたのが「本屋・生活綴方」でした。本屋でありながら、本好きから表現者へと生まれ変わる店番(みせばん)たちと、リソグラフのZINE作りがつながり、今まで出版した本は70冊を超えています。「買う」から「読む」、「読む」から「作る」という活動の綴りは、一種の社会運動とも言えるものになり、学校教育や地域活性化にも広がっている事例が紹介されました。
そういえば、“タイパ”の時代に「おそくて、よい本」作りを標榜する三輪舎の新刊は3年ぶりのことですが、そこには手作業で作った仕掛けが施されています。そして、それは“本屋”の小上がりで完成したのです。
前段に、戸塚にある明学大横浜キャンパスの図書館で事業運営をサポートする学生が活動報告を行いましたが、本を読まなくなった学生に向け、有志が様々な企画を立てては本の魅力を紹介するという、いかにも最近の大学事情を表した発表でした。図書館司書と連携しながらの活動ですが、長期間にわたってPRできるスペースがあることそのものが、大学キャンパスならではのことかとも思います。留学生は縦書きが苦手というのはうなづけます。
さて、中岡さんの話は、過去に何度か聴いてはいるのですが、今回それらをまとめて聴くことができたのが何よりです。本を“売る”ための“最先端”の売り場で感じた様々な本との出会いから生まれた「いつか本屋を始めたい」というワクワクする想いは、ミシマ社や夏葉社など“まっとう”な独立“系”出版社の本などとの出会いもあって、いつのまにか「出版」へと変わっていったようです。
出版の多くは外注。著者から校正・装丁・印刷・製本まで多くの人との共同作業になりますが、その中心というか、それらをつなぐ編集・発行作業の生産手段そのものが個人でできるまで縮小してきたことが大きな変化を促して、ひとり出版社を生み出しました。ただ、そこには「くふう」と「くろう」が必要です。
一方、「本屋Bar」からクラウドファンディングを経て再建途中だった石堂書店の2階に事務所を構えたものの、並行して進む「こいしどう書店」の“理想”に危惧を覚え、書店経営の実務にも関わるようになります。そこから生まれたのが「本屋・生活綴方」でした。本屋でありながら、本好きから表現者へと生まれ変わる店番(みせばん)たちと、リソグラフのZINE作りがつながり、今まで出版した本は70冊を超えています。「買う」から「読む」、「読む」から「作る」という活動の綴りは、一種の社会運動とも言えるものになり、学校教育や地域活性化にも広がっている事例が紹介されました。
そういえば、“タイパ”の時代に「おそくて、よい本」作りを標榜する三輪舎の新刊は3年ぶりのことですが、そこには手作業で作った仕掛けが施されています。そして、それは“本屋”の小上がりで完成したのです。
等身大の絵本の価値 ― 2025年10月31日 17:57
菊名の個人出版社三輪舎より『さいしょのにんげん』という題名の絵本が出たので、過日購入して読了しました。ネット上のあちらこちらで既に評判になっているようなのですが、何がどう良いのかには、ほとんど触れられていないところが、ある意味、今の時代を表しているようにも思え、何だかもやもやとした気分が募っています。そこで、あえて個人的な感想を述べてみたいという野暮な気持ちが生まれてしまいました。以下、簡単な感想を記します。
聞き知ったことによれば、制作にはずいぶんと長い期間をかけて、多くの推敲や検討がなされたようですが、それがほとんど感じられないように、話は坦々と、実に坦々と進んでいきます。ある男の子の一日が夢をめぐるように朝から夜まで描かれていて、そこかしこに、一見乱雑に見える様々な表象が“ごった煮”のように現れます。
何よりこの絵本に特徴的なのは、いわゆる“メディア”が出てこないことです。朝日が差してベッドから起き上がる表紙に象徴されるように、そこにはまず、“からだ”があって、その延長線上に様々なできごとが積み上がっていきます。子供の“からだ”は、時に他の“からだ”と交差しながら、世の中を動き回るのですが、ところどころで五感の働きが描かれるのです。
子供が人間社会という大きな現実に関わっていく様子が、遊びから買い物・家族まで、それぞれに“問い”や“対話”を通して経験していく形で書き継がれ、その果てには、人間そのものへの関心に向かうところまで広がります。
その昔、甥っ子に贈った何冊もの本はいずれも「物語」ベースのものだったので、子育ての経験のない私にとっては、この本が子供にどう受け止められるのかは想像外です。制作に関わった人たちの育った時代が、既に私の子供時代とは大きく変わっているだけになおさらです。ただ、この、いかにもそれらしい装丁の絵本を一言で言い表すとしたら、「等身大」という言葉が最もふさわしいと考えています。それが難しい時代になっていることの裏返しなのかもしれません。
聞き知ったことによれば、制作にはずいぶんと長い期間をかけて、多くの推敲や検討がなされたようですが、それがほとんど感じられないように、話は坦々と、実に坦々と進んでいきます。ある男の子の一日が夢をめぐるように朝から夜まで描かれていて、そこかしこに、一見乱雑に見える様々な表象が“ごった煮”のように現れます。
何よりこの絵本に特徴的なのは、いわゆる“メディア”が出てこないことです。朝日が差してベッドから起き上がる表紙に象徴されるように、そこにはまず、“からだ”があって、その延長線上に様々なできごとが積み上がっていきます。子供の“からだ”は、時に他の“からだ”と交差しながら、世の中を動き回るのですが、ところどころで五感の働きが描かれるのです。
子供が人間社会という大きな現実に関わっていく様子が、遊びから買い物・家族まで、それぞれに“問い”や“対話”を通して経験していく形で書き継がれ、その果てには、人間そのものへの関心に向かうところまで広がります。
その昔、甥っ子に贈った何冊もの本はいずれも「物語」ベースのものだったので、子育ての経験のない私にとっては、この本が子供にどう受け止められるのかは想像外です。制作に関わった人たちの育った時代が、既に私の子供時代とは大きく変わっているだけになおさらです。ただ、この、いかにもそれらしい装丁の絵本を一言で言い表すとしたら、「等身大」という言葉が最もふさわしいと考えています。それが難しい時代になっていることの裏返しなのかもしれません。
家父長制社会の残照 ― 2025年08月03日 17:26
地元の日本語教室は先月中旬に1学期を終わりましたが、今日は夏休みの特別レッスンです。コロナ禍ぐらいから日本語上級者を担当していたこともあり、ここ数年の夏休みには普段のレッスンではほとんど読まない文学を題材にした読書会を行なってきました。一昨年は『星の王子さま』の一部(他者との対話に関連した9つのSection)、昨年は村上春樹の『氷男』、そして今年は韓国の女性作家チョ・ナムジュの作品を取り上げました。読んだのは『家出』(雑誌初出篇)と『82年生まれキム・ジヨン』の冒頭です。いわゆるフェミニズム小説の中心的存在とも言えるチョ・ナムジュを取り上げたのは、学習者が全員女性であることも大きな理由ですが、それ以上に、批評的な視点で描かれた家父長制社会のありさまと、その後の変化を考えてみることができると思ったからです。ベトナム・台湾・中国とそれぞれ国は違えど、日本で就職した(する)進取の気性に富んだ女性たちですが、韓国にある家父長制社会とその残照(それは日本にも当てはまります)を知っておくことも意味のあることでしょう。今年の韓国大統領選の投票先で20代の男女差が顕著に現れたこともその一例です。
言葉は文化と切り離せませんから、小説の語彙(翻訳された日本語)の中には、能力検定試験にはなかなか出てこない独特な要素もあります。そうしたものに触れることこそが文学を読む大きな理由とも言えるでしょうか。深い読解というところまでは難しいのですが、これをきっかけに日本語の世界をまた一つ広げてもらえたらと思います。
言葉は文化と切り離せませんから、小説の語彙(翻訳された日本語)の中には、能力検定試験にはなかなか出てこない独特な要素もあります。そうしたものに触れることこそが文学を読む大きな理由とも言えるでしょうか。深い読解というところまでは難しいのですが、これをきっかけに日本語の世界をまた一つ広げてもらえたらと思います。
古典文学の橋渡し人 ― 2025年04月23日 17:13
新緑で囲まれた山手の丘を久しぶりに訪ねました。県立近代文学館で開かれている「大岡信」の特別展を観るためです。少し暑いぐらいの平日の昼前でしたが、丘の上は人も少なく、快い風が吹き抜けます。
ちょうど、これから日本語学習者と一緒に読んでいこうと考えて選書していた中の一冊に、彼がまとめた『折々のうた 三六五日』も含まれていて、新聞連載当時は購読していたことを懐かしく思い出します。「言葉を生きる、言葉を生かす」という副題どおり、生涯にわたって様々な言葉の創作と批評に関わった全体像が、今回の展示会で確認できました。
なかでもやはり、古典文学を今に伝える「橋渡し」の仕事に目を見張ります。本格的な詩歌論を書く一方、素人にもわかりやすく解説する手腕には驚かされるばかりです。展示館の外にある本館1階の閲覧室では、多くの著書を直に手にすることができるので、1時間ばかり、あれこれと斜め読みしてみましたが、フランスで行われた日本文学の講義をまとめた『日本の詩歌』(岩波文庫)が出色です。
日本社会で使われる言葉の“質”が急激に劣悪化していく中で、日本語を学ぼうとする外国人学習者と一緒に、この国に残る豊かな言語文化を引き続き学んでいきたいと思います。
ちょうど、これから日本語学習者と一緒に読んでいこうと考えて選書していた中の一冊に、彼がまとめた『折々のうた 三六五日』も含まれていて、新聞連載当時は購読していたことを懐かしく思い出します。「言葉を生きる、言葉を生かす」という副題どおり、生涯にわたって様々な言葉の創作と批評に関わった全体像が、今回の展示会で確認できました。
なかでもやはり、古典文学を今に伝える「橋渡し」の仕事に目を見張ります。本格的な詩歌論を書く一方、素人にもわかりやすく解説する手腕には驚かされるばかりです。展示館の外にある本館1階の閲覧室では、多くの著書を直に手にすることができるので、1時間ばかり、あれこれと斜め読みしてみましたが、フランスで行われた日本文学の講義をまとめた『日本の詩歌』(岩波文庫)が出色です。
日本社会で使われる言葉の“質”が急激に劣悪化していく中で、日本語を学ぼうとする外国人学習者と一緒に、この国に残る豊かな言語文化を引き続き学んでいきたいと思います。
若き詩人の物語 ― 2025年04月11日 17:07
昨年暮に横浜港の船劇場で観たメキシコの人形劇について、この記事欄に書き残した文章を演出・実演した二人のご当人に感想としてメールで送ったところ、過日その返信がありました。
メキシコの児童向け人形劇作家モニカ・ホスさんとその弟子にあたる高橋彩子さんにとって、日本での公演はとても記憶に残る旅になったようで、演目の『Ema』という大人向けに書き起こされた脚本が、「形式的な類似性を超えた“死の世界観”」を描いているという私の感想は的を射たものだったようです。
艀(はしけ)の中の空間という閉ざされた場所でありながら、打ち寄せる波の揺れが「ゆらぎ」を作り、何かの「あはひ」を劇空間に持ち込んでいるような気がしたのは、演者にとっても特別なことだったのでしょう。
終演後の話の中だったかどうか忘れてしまったのですが、ホスさんがパブロ・ネルーダに関心を持っていると語っていたことが頭に残っていて、年明けに妙蓮寺の本屋・生活綴方で『夢見る人』という詩人の若き頃を描いた児童文学を見つけ読了しました。
どんなものにも強いまなざしを向けて、それらを自らの想像の世界にはばたかせながら言葉にすることを覚えた詩人は、後に世界中で読まれる詩を数多く書きました。そこには、声によって伝わる「ゆらぎ」や「あはひ」で人々がつながり、何気ない日常を“見つめ直す力”があったのかもしれません。
メキシコの児童向け人形劇作家モニカ・ホスさんとその弟子にあたる高橋彩子さんにとって、日本での公演はとても記憶に残る旅になったようで、演目の『Ema』という大人向けに書き起こされた脚本が、「形式的な類似性を超えた“死の世界観”」を描いているという私の感想は的を射たものだったようです。
艀(はしけ)の中の空間という閉ざされた場所でありながら、打ち寄せる波の揺れが「ゆらぎ」を作り、何かの「あはひ」を劇空間に持ち込んでいるような気がしたのは、演者にとっても特別なことだったのでしょう。
終演後の話の中だったかどうか忘れてしまったのですが、ホスさんがパブロ・ネルーダに関心を持っていると語っていたことが頭に残っていて、年明けに妙蓮寺の本屋・生活綴方で『夢見る人』という詩人の若き頃を描いた児童文学を見つけ読了しました。
どんなものにも強いまなざしを向けて、それらを自らの想像の世界にはばたかせながら言葉にすることを覚えた詩人は、後に世界中で読まれる詩を数多く書きました。そこには、声によって伝わる「ゆらぎ」や「あはひ」で人々がつながり、何気ない日常を“見つめ直す力”があったのかもしれません。