揺れる舞台の死と再生2024年12月24日 17:36

久しぶりに横浜港の艀(はしけ)を訪ねました。前日は15度を超える春のような陽気でしたが、一昨日は少し冬らしい寒風が吹き抜ける海に近い道を歩きます。今回も横浜ボートシアターの自主公演ではなく、船劇場に仮設された小さな舞台で、珍しい人形劇の公演が開かれたのです。
 メキシコの脚本家で人形遣いでもあるモニカ・ホスさんが創作した『EMA』というオリジナル劇は、“死”が身近に意識されるメキシコならではの構成の中に、様々な文化的な意匠が織り込まれた形而上的な作品でした。
 舞台には鉢植えの低木と木のベンチのミニチュアが置かれ、そこに老婆の人形が登場します。老衰を感じさせる細かな動きは、ホスさん自らが両手で直接操る小ぶりの人形で、枯れ木に水をやった後は、ただひたすらに自らの行く末に思いを馳せるばかりです。背景にかけられた布のスクリーンに、冥界や天界の多様な存在が影となって映し出される一方、ラテン系らしいと言っていいのかわかりませんが、時に熱情的な詩が朗読されます。そこには形式的な類似を超えた“死”の世界観のようなものが感じられました。
 元々は子供向けの人形劇を多く書いてきたホスさんが、日本への訪問を機に大人向けに書いたオリジナル脚本で各地を公演するライブツアーがあり、たまたま船劇場の存在を知った弟子の高橋彩子さんが、日本での千秋楽の場所とするべく急遽実現に至ったそうです。岸壁に係留されていても、波止場に寄せる波に揺らされる艀の中は、特別な雰囲気のある空間を創り出すのに最適だったのでしょう。終演後、お二人はしばらく表に顔を出すことができませんでした。
 人形やセットなど、いずれも日常の回りにある素材で作られた物ですが、わずかな時間、そこに命が吹き込まれたような気がします。最後、鉢植えの低木にかけられた小さな葉っぱのつながりが、命の連関を思わせて、横たわって死んだ老婆を見守っていました。トークを含めた講演全体が終わった後、劇中の影に表れた水紋の仕掛けがわかりました。水を張った水盤に墨や油を流して、それをオーバーヘッドプロジェクターで投影していたのです。ふと、砂絵アニメーションの制作風景を思い出しました。
 公演そのものは短いものでしたが、とても充実した時間を過ごした気分です。

定番への「はて?」が開く新しい芸能の夜明け2024年12月10日 17:31

今年最後の寺参りに相応しい素晴らしい公演でした。台東区竜泉と言えば樋口一葉を思い浮かべますが、今回は入谷に近い西徳寺という真宗のお寺。聞法(もんぼう)と呼ばれる仏の教えを聴聞することもある本堂の椅子席で、玉川奈々福さんの“語り”を聴きました。この日の演目は、西徳寺で菩提を弔われている十八代中村勘三郎丈が襲名披露で演じた野田版歌舞伎『研辰(とぎたつ)の討たれ』を浪曲化したもので、十三回忌の法要を兼ねた「…を聞く会」としての開催です。
 前読みもなく、開会早々に奈々福さんが出てきて、まずは「義士伝」と「忠臣蔵」の解説。江戸は元禄時代に起きた赤穂事件の概要と、その波紋から生まれた数多くの芝居や劇作を紹介し、日本人の精神形成にも大きな影響があったこの物語の普遍性を説明します。
 ただ、昭和の時代であれば、年の暮れにはテレビ時代劇の定番と言われるほど大衆文化に定着した「忠臣蔵」も、今はすっかり影を潜めました。巷(ちまた)には「天野屋」のような義商どころか今日の儲けを最優先する“越後屋”が跋扈(ばっこ)しています。今では“義”や“忠”も少々危うい状況ですが、今回の主演目は、その人間的な本質につながる考え方そのものを問い直してみる作品なのです。
 そこで、まずは最初に赤穂事件に関連して生まれたスピンオフの物語『赤垣源蔵・徳利の別れ』の一席が演じられ、休憩を挟んだ後半に“人間的な本質”を問う傑作『研辰の討たれ』があるという構成になっています。「とっくりのわかれ」と「とぎたつのうたれ」、見事な掛詞にもなっています。
 『赤垣…』は講談から来た演目らしく、赤穂義士の討ち入り前と直後のエピソードを、兄弟を囲む人間関係の中に生き生きと描き出す語り物で、まさしく“義”や“忠”を象徴するものです。勘三郎丈の遺影も飾られる本堂の中央で、奈々福さんはいつもより少し緊張している様子がうかがえました。
 『研辰…』の方は、シネマ歌舞伎として映像にも残されている作品で、歌舞伎らしく華やかで多人数が出てくるものなので、10人近い登場人物を描き分けるだけでも大変です。それ自体がとても挑戦的な演目なのですが、それに加え、浪曲という語りの象徴でもある“人情”や“義”に「はて?」を投げかける主人公の有り様への共感も得ようと考えれば、二重に困難な取り組みだったとも言えるでしょう。
 豊子師匠を彷彿とさせる美舟さんの相三味線と二人のお囃子方にも支えられ、それを見事にこなす奈々福さんを、平成中村座で歌舞伎界に新風を巻き起こした勘三郎丈は、草葉の陰から心強く見守っていたことと思います。とても心に沁みました。
 木村綿花から野田秀樹へと受け継がれてきたこの問題作には、今失われている真っ当な社会批評の数々が散りばめられていて、所々に現代の社会問題に通じる表象が現れます。それは、この演目に表れる表現が浪曲の新しい“ありよう”を開き始めていることにつながっているはずです。その取り組みに心からのエールを送りたいと思います。

海を渡って伝えた人を語る催し2024年11月29日 17:28

お寺は一休みして、今回は繁華街。東京は銀座六丁目にある複合商業施設「GINZA SIX」の地下3階にある観世能楽堂を初めて訪ねました。人混みが苦手で、銀座は久しく遠ざかっており、直近は5年前の森田画廊か朝日ホールぐらいでしょうか。一応、銀座の周辺ですね。^^;
 有楽シネマがあった頃は、SONYビルなども併せて良く通ったものですが昭和は遠くなりにけりです。混雑する銀座線の構内から一旦外に出てみたものの、通りも外国人観光客でごった返しているので、慌ててあづま通りの地下から向かうことにしました。こちらは極端に通行人が減ったせいか、100mほど奥に見える「GINZA SIX」から届く光が何やら少し神々しく見えます。そのまま地下2階にアクセスできるということで、上階にある吹き抜け構造も見ぬまま、さらに下の能楽堂へ向かいました。
 この日の公演は能・狂言ではなく日中の伝統芸能が共同で行うものでした。演目は『東渡』。日本へ正式な戒律を伝えてもらう為に時の天皇が招聘した中国の高僧鑑真和上の物語です。何度も渡海に失敗し失明もしますが、六度目にしてようやく成功し日本へ渡って受戒を広めます。その最後の航海に先立つ中国黄泗浦(現在の張家港市)での別れを序章とし、出立前夜、渡海、日本での事績がそれぞれ章立てされ、最初と最後が蘇州評弾と浪曲が単独で、真ん中を蘇州評弾と狂言のコラボレーションが演じる構成です。舞台のはずれ、ワキ柱の横に翻訳字幕を表示するスクリーンが仮設され、中国風の音楽が全体の進行を表して行きます。
 評弾とは中国にたくさんある語り芸の一種です。舞台中央には三味線と琵琶を手にする二人の演者がいて、それぞれ一人語り風に話を進めたり、時にかけ合いもありますが、途中から短い寸劇を演じる数名も橋掛かりから登場します。浪曲でいう「節と啖呵」にあたる部分があり、“節”の曲調は全体的に中国の労農歌のような歌い上げるものが多く、繰り返しながら高まってゆく感じです。
 その評弾に、狂言の台詞がかぶるのが渡海の章です。嵐に見舞われて難儀する鑑真一行の有様を見た「海亀と小魚」が登場します。奥津健太郎・健一郎さんが演じます。かぶりものを付けた二人の演者は竜王の使いであることを明かし、船から落ちてしまった仏舎利を届けてくれるのです。狂言の台詞は伝統的な古式に拠った言葉で構成されますが、評弾と渾然一体とした雰囲気を見事に創り出していて驚きました。
 最後の章は、純粋に日本の浪曲です。舞台上に設えられたテーブルと上手の相三味線。くすぐりこそありませんが、前章からの流れを引き継いで、鑑真和上の日本での事績を語ります。当代の最も優れた語り手の一人である奈々福さんの熱演は、日中交流の演目の掉尾を飾るに相応しいものでした。
 この新作は、それぞれの演者によって作劇されたものであることが何より素晴らしいところで、ここに至るまでの準備に大いなる敬意を表します。パンフレット最後の「中国曲芸とは」という一文には、故永六輔・小沢昭一両氏の名前もあって、出来映えにさぞ満足されたであろうと思い及びました。

“タイパ”から離れる至福の時間2024年11月13日 17:21

お寺回りが続いています。先週末は遠出して八王子へ行きました。駅南の大通りを西へ向かって20数分、信松院という曹洞宗のお寺があります。武田信玄の息女松姫も祀られる観音堂の中でインド古典音楽を聴きました。
 インドの楽器というと、あのラヴィ・シャンカールのシタールを連想しますが、今回はサントゥールとタブラの組み合わせでした。シタールは生音を聴いたことが数度ありますが、サントゥールは今回が初めて。その昔、藝大の小泉文夫氏が解説を務めたFM「世界の民族音楽」を聴いて、サントゥールの音色に魅せられたことがあります。渋谷桜丘のレコード店で初めて買った民族音楽のレコードは、レバノンの歌姫ファイルーズのアルバムと、イランのサントゥールでした。
 さて、ラーガ(旋法)というインド古典音楽の様式を具体的に示す楽器サントゥールとタブラは、それぞれ単独で聴いても、その幻妙な響きに魅せられると思いますが、同時に行われるセッションでは、また一段と深い、ある種の超越的な広がりが感じられます。雅楽の笙や琵琶、タンゴのバンドネオンにもある倍音の響きが、幾重にも重なりながら拡がっていくようなイメージとでもいいましょうか。輪廻のような繰り返しは、少しずつ変調し、煙のように上昇していく感じもありますが、ジャズの即興にも似て、縁者の息が合う一瞬、あるタイミングで止まり、お互いの姿を確認しながらまた音楽は続くのです。
 一日の時間帯で使うラーガが違ったり、7や10など複雑な拍子もあり、音楽のど素人には近づきがたい面もありますが、その演奏空間の不思議さを体験することにこそ意味があるのかもしれません。ちなみに観客のほとんどが女性でした。決まり切った日常から離れ、長い時間軸で物事を感じ考える機会を得られる点でも、“タイパ”社会から一時離れるその時間は現代人にとって何よりも貴重です。

追悼の能と謡2024年11月04日 17:13

前記事の続き。第2部は能『柏崎』。鎌倉幕府体制下で訴訟のために永く鎌倉へ留め置かれた柏崎殿(御家人?)の訃報と、その息子“花若”の遁世(出家)を、ワキの家来が柏崎で待つ妻(シテ)へ知らせるところが前場です。前シテは早々に出場しており、笛柱の前で待っています。家来が形見の品を入れた打飼袋と手紙をそれぞれ順番に渡しながら事情を語り、妻がその最後の様を聞き取るという段取りです。話はそれから急展開して後場へ移ります。
 あはれ狂女となった妻は柏崎を出て、古代から女人救済の信仰で知られる信濃の善光寺へ向かうのです。狂女に笹は付きものですが、道行では肩にかけ、着いてからは手元に下げていたようです。女人禁制の内陣に入るのを住僧(ワキツレ)が止めますが、阿弥陀仏の救済を説く狂女に気圧されます。この後、夫の形見の烏帽子直垂(えぼしひたたれ)を舞台上で着けて舞うのですが、この変化が非常に劇的です。形見を如来に参らせる(届ける?)という詞章の言葉もありますが、これは当時の風習として、死後に往生するために女性が男の姿に変わって成仏することに繋がっているのかもしれません。
 物着で人が変わったように端正な舞が続いた後、住僧がもしやと連れてきた子方が息子“花若”だったところから、思わぬ邂逅に我を取り戻した狂女が我が子を抱きしめて芝居は終わります。
 演目が終わり、登場人物に続き囃子方が退場しても、まだ地謡だけは残っていました。見所から微かな話し声が起きる中、銕仙会の山本順之師への追悼の一節がこの日の舞台で謡われました。能楽界ならではの慰霊の方法なのでしょう。