付けっぱなしメディアからの逃避2025年10月05日 17:47

 古稀を迎えました。この国の行く末が案じられますが、少なくとも後期高齢者になるぐらいまでは、留学生を含む外国人への日本語学習支援を細々と続けていきたいと思います。
 一方で、添削“例”を作って彼女らの文章に手を入れるということはめっきり減りました。生成AIを活用すれば、文法的に正しいごく普通の日本語を書くための練習はほとんど不要となっているからです。旧Twitterなどに書き散らされる膨大な駄文に比べれば、はるかに適切な日本語を外国人が表現できる時代でもあります。比較的最近の話ですが、自動制御技術に関する専門的な文章をどのようにしたら“日本語らしく論理表現”できるのかを教えて欲しいというリクエストが理工系の留学生からありました。4回ほどのレッスンを集中的に行った後しばらくして、希望していた日本企業に無事内定したという吉報が届きました。
 人の文章を添削して、一つの“例”として示すという作業はそれなりに頭を使いますし、作文の感覚を持ち続けるのも大変です。その練習のためにも、こうして、この欄に短文を書き続けてきたわけですが、その必要性も減りつつあります。アルゴリズムに催促されて10年も前の自分の文章を読む機会があると、当時は今よりもう少し深く考えていたように感じる事が多くなりました。
 一つには、情報の津波のようなネット世界の惨状があるのかもしれません。過日書いたように、自分にとって有意な情報だけを知りたいのに、SNSが勝手な“関連”アルゴリズムで並べるタイムラインを続けて読まされるのは苦痛です。精神集中も思考も疎かになります。私自身はSNSの勧める情報へほとんど関心を向けないのですが、もしかしたら、誰かの広告だけにとどまらず、リクエストに応えた“友達”の関心領域までもが混交することもあるのでしょうか。そうであれば、それは“付けっぱなしのテレビ”と何がどう違うのでしょう。私は戦後世代のテレビっ子ですが、父親の観る番組が優先される家庭にあって、時に一人で図鑑や本を眺め、長じてはラジオを聴く時間を持つことができました。今考えると、それはとても貴重なことだったのかもしれません。

外国人と学ぶ和歌2025年10月19日 17:48

古稀を過ぎてから、いろいろと忙しくなっています。先々週の土曜日は帰国して上海に住む元留学生とZoom。先週の日曜日は地元の国際交流ラウンジの「ワクワクまつり」で担当学習者の日本語スピーチをアテンド。水曜日はNPOに新入会した中国の留学生と発話のレッスン。木曜の夜はいつもの日本語教室で3人を相手に学習支援。そして本日の午前中は、七五調の簡単な紹介と、“外国人向け”の「和歌を知る小さな集まり」の第1回。全く別の参加者3人を相手のオンライン勉強会です。テーマは“秋の虫”、古今和歌集や源氏物語などの古典、虫に関わる日本の文化などを簡単に紹介しました。QRコードのないチラシを作り、メールで申し込んだ人だけにZoomのURLを教えるという“小さな”あつまりです。30分の解説と短いフリートークで伝えられるものはごくわずかですが、その内容の数々が、生成AIではなく、生身の一個人の頭の中で繋がっていることはちょっと特別です。引き続き参加の希望がありましたのでこれを続けます。次回は“紅葉”の予定です。

小選挙区制が生んだ政治への無関心2025年10月21日 17:54

村山富市氏が亡くなり、直近の「戦後80年所感」との関連で、あの自社さ政権当時の「戦後50年談話」が再び話題になっていますが、私はあの時代に始まった政治“改革”である「小選挙区制」導入の方がよほど強く印象に残っています。
 死票が多く、民意が十分に掬い取れず、小規模政党が国政から追いやられ、当時は“革新”とも呼ばれた社会民主会派が大きく後退した結果、二大政党路線の流れは、国民の支持を失った左派社会党から中道保守の新進・民主党に移っていきました。自治体の首長が、“革新”系知事から官僚出身者へと移り変わるきっかけにもなったと思います。
 1票の格差がひろがり、国民が政治への関心を失って、排外主義がこの国の自壊を一層進めているのにも関わらず、議員定数の削減という少数意見を持つ人々の政治参加をさらに阻害するような動きがまたぞろ出てきているようです。
 多くのメディアが政局報道に明け暮れている様子に心底嫌気が差していることもあり、終日ひとり静かに、購入したばかりの日本語能力検定N1の受験対策本を読みながら、12月の試験日に向けたレッスンの方法を考えています。

見立てと七五調2025年10月24日 17:55

日本語を学ぶ外国人に和歌を紹介する機会をオンラインで作りたいと思い始めたのは、今から5年ぐらい前のことです。ちょうど、コロナ禍の最中でした。論文チェックから、日本語の幅広いレッスンを経て、様々な文化行事にも一緒に参加した留学生と、歌枕で知られる駒込の六義園を訪ねてみたいと考えていた頃です。
 その後、能楽師のWeb講座を聴いたり、和歌の関連本を読んだりしているうちに、「見立て」や「掛け詞」のような豊饒な言語文化に加え、失われつつある四季の感覚、今に繋がる伝統芸能や、関連する多くのサブカルチャーなどを気にかけるようになりました。
 専門的な勉強などしたこともない一介のボランティアだからこそ、「日本文化のごった煮」のような紹介ができるのではないかと思いながらも、まずは、その前段として「七五調」と呼ばれる短詩型の由来を調べ始めました。それは、『声に出して読む日本語』をブックオフで買いあさっては担当留学生一人一人に進呈してきたことの延長線上でもあります。
 その後、「日本語のリズム」に関するワークショップを二度開き、その過程で、今度はいろいろな伝統芸能を聴き続けてきた経験が繋がります。型や、調子や、障りなど、芸能たらしめるための様々な仕掛けは、日本語という母語だからこそ生まれてきたものであって、今でも多種の語り芸を日常的に聴く事ができるという得難い環境もまた、この国ならではの貴重な宝と言って差し支えないでしょう。
 手術後の合併症がすこしずつ良化し、古稀を迎えたこの時期が、この国の不思議な文化の一端を“帰国”後も覚えていて欲しいという以前からの目論見を実現する、最後のタイミングのように思えました。それだけ、強い危機感を覚えています。
 彼女ら日本語学習者にとっては、何より、そうした歴史文化遺産に触れる事もなく、ただ威張りたいだけの日本人と接するような機会ばかりが増える可能性が高くなりました。本当の意味での「自虐」が蔓延し、自壊が進むこの国で、公金を私(わたくし)する為政者と、幇間のように支えるSNSやメディアが跋扈しています。
 そうした喧騒から、一時でも離れてみる機会を作れたら本望です。

等身大の絵本の価値2025年10月31日 17:57

 菊名の個人出版社三輪舎より『さいしょのにんげん』という題名の絵本が出たので、過日購入して読了しました。ネット上のあちらこちらで既に評判になっているようなのですが、何がどう良いのかには、ほとんど触れられていないところが、ある意味、今の時代を表しているようにも思え、何だかもやもやとした気分が募っています。そこで、あえて個人的な感想を述べてみたいという野暮な気持ちが生まれてしまいました。以下、簡単な感想を記します。
 聞き知ったことによれば、制作にはずいぶんと長い期間をかけて、多くの推敲や検討がなされたようですが、それがほとんど感じられないように、話は坦々と、実に坦々と進んでいきます。ある男の子の一日が夢をめぐるように朝から夜まで描かれていて、そこかしこに、一見乱雑に見える様々な表象が“ごった煮”のように現れます。
 何よりこの絵本に特徴的なのは、いわゆる“メディア”が出てこないことです。朝日が差してベッドから起き上がる表紙に象徴されるように、そこにはまず、“からだ”があって、その延長線上に様々なできごとが積み上がっていきます。子供の“からだ”は、時に他の“からだ”と交差しながら、世の中を動き回るのですが、ところどころで五感の働きが描かれるのです。
 子供が人間社会という大きな現実に関わっていく様子が、遊びから買い物・家族まで、それぞれに“問い”や“対話”を通して経験していく形で書き継がれ、その果てには、人間そのものへの関心に向かうところまで広がります。
 その昔、甥っ子に贈った何冊もの本はいずれも「物語」ベースのものだったので、子育ての経験のない私にとっては、この本が子供にどう受け止められるのかは想像外です。制作に関わった人たちの育った時代が、既に私の子供時代とは大きく変わっているだけになおさらです。ただ、この、いかにもそれらしい装丁の絵本を一言で言い表すとしたら、「等身大」という言葉が最もふさわしいと考えています。それが難しい時代になっていることの裏返しなのかもしれません。