無分別の府2025年07月24日 17:25

 おそらく2025年という年が、この国の歴史の分岐点になることは間違いないでしょう。「良識の府」は「無分別の府」となって語り伝えられることになるはずです。戦後の平和論の中で一番欠落していたものが今になってはっきり分かったような気がします。それは、自らが戦争遂行の一助として関わったことについての徹底的な無責任です。天災のように戦争被災ばかりが語られ、数少ない例外を除けば、本土外の戦地で行われた軍の蛮行に触れられることはほとんどありません。それは、語りたくない本人の心情以上に、それを公にしないでおこうとする大衆社会が黙らせたからです。
 戦後まもなく結成された自由映画人連盟による戦争責任の指摘と追放の主張に対し、会員であった伊丹万作が記した「戦争責任者の問題」は、立場を超えた一個人がどのようにあの戦争に関わってきたかを顧みて自省するものでした。そこには、次のような文章が綴られています。「少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、(中略)あるいは小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということは、いったい何を意味するのであろうか」。先の戦争は、膨大な無責任の果てに終わったということでしょう。
 平均的な日本人より格段に美しい日本語を話す外国人に、そろそろ帰国したほうが良いと言わなければならないような社会がまた一歩近づいたような心持ちです。

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