諷喩としての狂言 ― 2024年06月03日 15:23

駅周辺の高層ビル拡張工事は依然としてカオス状態にあると、渋谷を訪ねる度に再確認させられます。今日は「セルリアンタワー」能楽堂に「狂言やるまい会」を観に行ったのですが、東横線の地下駅から「スクランブルスクエア」を横切り、JRの西口改札前を抜けて、玉川通りを渡る歩道橋に登った頃、ようやく人心地がついたと思ったら、正面に「サクラステージ」なる商業施設が現れました。「一風堂」(ラーメン店ではない)や「ロゴスキー」があった頃の桜丘がもうすっかり一変しているのには驚きます。
さて、番組は『音曲聟』・『瓜盗人』・『連尺』という狂言三番。和泉流狂言方野村又三郎家に連なる面々による公演です。いずれもあまり見かけない演目で、音曲や、笛に合わせた舞、男女の商売人による掛け合いなど、演者それぞれに挑戦する姿勢が感じられるプログラムになっています。
『音曲聟』は奧津健一郎さんが聟、健太郎さんが舅役。実の親子が舞台では義理の関係になります。大柄で衣装映えする健一郎さんだけに、聟入りの挨拶の教えを請う“何某”に出で立ちを褒められて喜ぶところなど、“愚かさ”の表現も巧みです。“音曲”は節を付けて話す、いわばミュージカルのようなものですが、そんな挨拶を受けて思わず噴きだす舅と太郎冠者ですが、これが“当世風”なのかと合わせるところは人が良い。酒が入って鷹揚になるとしまいには双之舞まで披露します。なにか能のカリカチュアにもなっているような不思議な演目です。
『瓜盗人』は『盆山』のように垣根を壊す所作が入る盗人の話。畑主がカカシに使うのが翁面で、瓜を盗られた後に自ら付けてカカシに化けます。舞台で付けるところは「翁」を連想させますし、盗人が祇園会の出し物になぞらえてカカシ(実は畑主)と遣り取りする場面では唄(今様?)や囃子方の笛が入るなど、こちらも能の雰囲気が漂います。一方で月明かりの深夜という時間設定が、寝転びながら瓜を探す狂言らしい所作には良く合っています。
『連尺』は背負子の紐。Webで検索するとその意味は出ますが、語源がわからりません。“尺”が30cm前後の長さの単位であるとしたら、背負子紐が身体に密着する肩当ての太い部分がそれにあたります。正面から見て並んだその姿が連なっているところから付けた名前なのでしょうか。演目の内容は、新しい市(いち)が立つことを聞いた商売人が、永代の権利欲しさで一番最初に店を出そうと争う話です。女の歌賃(餅のこと。搗ち飯)売りと男の絹布売りが、口喧嘩から歌合戦、足押(すねを押し合う足相撲)、さらには相撲で決着を付けるという騒ぎになります。ところどころにセクハラめいた所作もある中、いずれも男が負けを認めないのは現代に通じます。明治以降、公序良俗に反するとして上演禁止になっていたものを当代又三郎師が復曲したそうです。
狂言は諷刺の芸。『光る君へ』でも、散楽が演じられたり、『白氏文集・新楽府』の諷諭が語られましたが、時代(とき)の権威に抗う姿勢は、豊穣な“対向文化”を育ててきたことの一つの象徴でもあります。
さて、番組は『音曲聟』・『瓜盗人』・『連尺』という狂言三番。和泉流狂言方野村又三郎家に連なる面々による公演です。いずれもあまり見かけない演目で、音曲や、笛に合わせた舞、男女の商売人による掛け合いなど、演者それぞれに挑戦する姿勢が感じられるプログラムになっています。
『音曲聟』は奧津健一郎さんが聟、健太郎さんが舅役。実の親子が舞台では義理の関係になります。大柄で衣装映えする健一郎さんだけに、聟入りの挨拶の教えを請う“何某”に出で立ちを褒められて喜ぶところなど、“愚かさ”の表現も巧みです。“音曲”は節を付けて話す、いわばミュージカルのようなものですが、そんな挨拶を受けて思わず噴きだす舅と太郎冠者ですが、これが“当世風”なのかと合わせるところは人が良い。酒が入って鷹揚になるとしまいには双之舞まで披露します。なにか能のカリカチュアにもなっているような不思議な演目です。
『瓜盗人』は『盆山』のように垣根を壊す所作が入る盗人の話。畑主がカカシに使うのが翁面で、瓜を盗られた後に自ら付けてカカシに化けます。舞台で付けるところは「翁」を連想させますし、盗人が祇園会の出し物になぞらえてカカシ(実は畑主)と遣り取りする場面では唄(今様?)や囃子方の笛が入るなど、こちらも能の雰囲気が漂います。一方で月明かりの深夜という時間設定が、寝転びながら瓜を探す狂言らしい所作には良く合っています。
『連尺』は背負子の紐。Webで検索するとその意味は出ますが、語源がわからりません。“尺”が30cm前後の長さの単位であるとしたら、背負子紐が身体に密着する肩当ての太い部分がそれにあたります。正面から見て並んだその姿が連なっているところから付けた名前なのでしょうか。演目の内容は、新しい市(いち)が立つことを聞いた商売人が、永代の権利欲しさで一番最初に店を出そうと争う話です。女の歌賃(餅のこと。搗ち飯)売りと男の絹布売りが、口喧嘩から歌合戦、足押(すねを押し合う足相撲)、さらには相撲で決着を付けるという騒ぎになります。ところどころにセクハラめいた所作もある中、いずれも男が負けを認めないのは現代に通じます。明治以降、公序良俗に反するとして上演禁止になっていたものを当代又三郎師が復曲したそうです。
狂言は諷刺の芸。『光る君へ』でも、散楽が演じられたり、『白氏文集・新楽府』の諷諭が語られましたが、時代(とき)の権威に抗う姿勢は、豊穣な“対向文化”を育ててきたことの一つの象徴でもあります。
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